自由からの逃走 新版
薬剤師会やradikoのような行動は、日本人に固有というわけではない。人類は100万年以上にわたって集団で生活してきたので、自分の所属する集団を守る遺伝的な習性がある。近代社会では「個人が自立する」というのは錯覚で、共同生活の形が変わっただけだ。

それはマルクスの言葉でいうと、人と人が直接つながる人的依存関係から、商品や金銭を介してつながる物的依存関係に変化したのだ。このように「物象化」された疎遠な関係は人々を自由にするが、他方では孤独にする。
その孤独を癒やすために生まれたのがプロテスタント教会だった、とフロムは言う。ルターにもカルヴァンにも共通するのは、自由意志の否定である。ルターは『奴隷意志論』というパンフレットを書いて懐疑主義を攻撃し、カルヴァンは予定説をとなえた。彼らはカトリック教会の権威を否定したが、彼らの教義はカトリックより権威主義的で非妥協的だった。

これは一見すると奇妙にみえるが、当時の状況を考えると理解できる。中世の教会秩序や世俗的秩序が崩壊する中で、さまざまな異端があらわれ、宗教戦争が頻発した。プロテスタントもこうした異端派の一つだったが、彼らが生き残ったのは、ルターやカルヴァンが教団の中で絶対的な権力をもっていたからだ。

それはカステリオンやエラスムスのような知識人にとっては、カトリックの権威の代わりにカルヴァンの権威を押しつける独裁政治と見えただろうが、多くの人々がカルヴァンに従って戦い、結果的に近代社会を生み出した。それはカルヴァン教団の軍事的な規律が強かっただけでなく、人々に孤独からの救済を与えたからである。

この点でカルヴィニズムはナチズムと同根である、とフロムは言う。30年代ドイツの混乱した状況の中でナチスと共産党が台頭したが、共産党は個人の内面には無関心だったのに対して、ヒトラーは人々の最大のストレスが経済的な欠乏ではなく、精神的な不安であることを見抜き、自分が神の代わりになって彼らに命令することで不安を癒やしたのだ。

人々が自由意志をもっているというのは錯覚である。近代啓蒙の元祖たちが気づいていたように、世界がニュートン力学的な法則に従って動いているとすれば、神は必要ないが自由意志も必要ない。ドストエフスキーが「大審問官」で見せたように、教会は人々に代わって意思決定を行なうことで、自由という幻想から人々を救済したのだ。

本書は1941年に出版された、ファシズム論の古典である。フロムの分析用具はフロイト的で古いが、ここで彼が指摘した近代人の不安は今も変わらない。近代社会は「自由な個人」の集合体ではなく、人々を孤独から救済したカルヴィニズムが、株式会社という「成長機械」を生み出したのだ。

日本人は自由から逃げこむ場所を会社という共同体に見つけ、会社が競争する巧妙なしくみをつくったが、この構造は限界に来ている。既存の企業が新しい産業構造やグローバル化に適応できないのに、企業という入れ物を守ることで労働者を守る発想から脱却できない。

自由も特殊西洋的な言葉であり、キリスト教と同じく、多くの人々が信じるがゆえに成り立つ再帰的な概念にすぎない。その不安から逃避して、単純明快な「正義」や「安心・安全」を絶対化する人は多い。日本にはフロムの分析した暴力的なファシズムが出てくる気配は今のところないが、「空気」で法を踏み越える「柔らかいファシズム」は進行中だ。自由主義とは、そういう神話を信じない懐疑なのである。