Natural Right and History (Walgreen Foundation Lectures)
けさの続き。次の本のためのメモなので、興味のない人は無視してください。

経済がほっておけば「均衡」に向かうというのは経済学者だけがもつ特殊な信念で、現実にもその条件はまったく満たされていない。それなのに社会はそれなりにバランスを崩さないで動いているようにみえる。これは人々の効用関数を標準化し、需要関数が集計できるかのような状態を実現する装置があるからだ。
新古典派が厳密に証明したように、社会全体の超過需要関数を計算するためには、各人の効用関数が同一(少なくとも集計可能な程度に符号が同じ)であることが必要条件だ。これは一般には成り立たないので、需要関数を知っている単独の代表的家計=計画当局が必要だ。つまり個人が同質でないときは、社会を代表する絶対者がいることが秩序の維持に不可欠なのだ。

その絶対者がキリスト教の神だった、とレオ・シュトラウスは考えた。これは西洋に固有の信仰で、複雑な社会を統合するために作り出された共有知識である。しかし近代になって、マキャベリは神を信じられなくなり、君主が神に代わって人々を統治すべきだとのべたが、彼は実は君主も信じていなかった。彼の共和主義の本質は無神論である。

マキャベリの無神論を徹底したのがホッブズで、ここでは神なき世界で個人が国家を建設する過程がシミュレーションされ、人々の意思を集計する君主が必要だということが証明される。しかしこれはヒュームも批判したように、人々が依拠する共通の規範を前提している循環論法だ。

ゲーム理論で考えると、ギンタスも指摘するように、ナッシュ均衡が存在するためには、全員の利得関数についての共有知識を全員がもつという非現実的な条件が必要だ。さらに長期的関係を維持するためには、全員が最適解についての共有知識をもつ必要がある。バラバラの個人による囚人のジレンマのナッシュ均衡は「万人の万人に対する闘い」しかない。

本質的な問題は、国家をナッシュ均衡として構成するための条件である共有知識が近代社会では存在しないことだ。だから神なき世界では、ホッブズ的な国家はきわめて不安定で、不断に戦争のリスクにさらされる。平和を実現するには、人々がキリスト教に代わる絶対的な規範=自然権を共有するしかない、とシュトラウスはニヒリズムを批判する。

しかし何を自然権とするのかという問題になると彼の議論は混乱し、マッキンタイアやサンデルと同じく、アリストテレスの共通善に行き着く。これは西洋圏では可能かもしれないが、グローバルな普遍性はもちえない。ヒュームやバークの「自然権なんてナンセンスだ。慣習しかない」というニヒリズムをシュトラウスは批判するが、論破できない。

これは普遍論争以来のテーマで、普遍=神は存在しないが必要なのだ。しかし人々が長期的関係を濃密に共有してきた日本人は、そういう苦闘を経験したことがないので、これから人工的に普遍を構築することはきわめて困難だ。むしろ文字どおり計画当局が一人しかいない中国のほうがグローバル化には適応しやすいが、それは民主的国家にはなりえない。