ディスコルシ ローマ史論 (ちくま学芸文庫)
マキャベリというと『君主論』で絶対君主が目的のためには手段を選ばないで冷酷非情に統治せよという「マキャベリズム」の元祖と誤解されているが、あれは失業中だった彼がロレンツォ・ディ・メディチに献呈した就職用パンフレットで、文筆業になってから完成した本書のほうが本音に近い。

本書でマキャベリは「どちらも思いのまま勝手な振る舞いが許される君主と人民の場合を想定すると、君主よりは人民の側に失敗を犯すことが少ないように思われる」(58節)と書いている。フィレンツェ共和国の高級官僚の地位を追われ、メディチ家の支配下に置かれたフィレンツェで浪人中の彼は、共和制と君主制を体験し、両方の長所と短所を論じているのだ。
しかし彼の勤務していた共和国が崩壊したことでも明らかなように、共和制にも欠点は多い。彼が『君主論』で指摘したように、政治的な意思決定(特に軍事的な決定)は、単独でやらないと何も決まらないからだ。本書でも、古代ローマを建国したロムルスが、内紛で弟を殺したことを「自分の野望を満たすためではなく、社会のために行動した」から許されるという。

彼の時代には共和制と君主制の間にそれほど大きな違いはなく、本書でも両方の長所と短所を比較しながら、両者に共通に必要なのはヴィルトゥ(徳)だという。これは『君主論』でも君主に必要な資質とされているが、それが共和制にも必要だというのだ。しかし民衆がみんな徳をそなえていることはまれなので、共和制は混乱をまねきやすい。

ここで彼が強調するのは、法律の役割である。ローマは建国者の立法によって「ヴィルトゥを国家に刻み込み」、それは王制が共和制になっても腐敗からローマを守ったという。したがって立法機関の設計が重要だが、その健全性を担保するのは、立法者の自由を保証することだ。他国の支配や富裕層の利害から自由で「誰にも依存せず独立している」ことが健全な意思決定の最大の条件である。

本書で印象的なのは、きっぱり断定する『君主論』とは対照的に、マキャベリが理想の政体を決められずに悩んでいることだ。ただ比較の対象は共和制と君主制で、民主的かどうかは問題にならない。意思決定がさまざまな利害から独立しているかことが重要なので、すべての大衆の参加する民主制は望ましくない。むしろごく少数の「自由な市民」が政治に専念し、彼らの生活を奴隷が支えた古代アテネのような共和制のほうが安定するという。

「決定できる国家」の条件をさぐるマキャベリの苦闘は、当時のイタリアと似たような政治的カオスが続く日本にも当てはまる面がある。フィレンツェと同じように絶頂期を過ぎ、政権がくるくる変わって何も決まらない。半年かかって「成長戦略」と称して出てきたのは、既得権に遠慮した骨抜きの「特区」構想だけだ。「日銀の独立性なんか必要ない」という連中は、マキャベリから勉強し直したほうがいい。