歴史主義の貧困 (日経BPクラシックスシリーズ)
今年のスウェーデン銀行賞は、ファーマとハンセンとシラーという奇妙な組み合わせになった。John Kayも指摘するように、ファーマの効率的市場仮説(EMH)とシラーの行動ファイナンスは矛盾する理論であり、これは「プトレマイオスとコペルニクスに同時授賞」したようなものだ。ファーマは以前から最有力候補だったが、ノーベル賞委員会もさすがに金融危機のあとEMHに単独授賞するのは気が引けたのだろう。

これは「経済学は科学か」という疑問をまた投げかける。本書の原著はポパーが1957年に出版したもので、大著『開かれた世界とその敵』のダイジェスト版である。中身はもう過去の遺物だが、日銀の黒田総裁が解説を書いているのが注目される。彼はこう書く:
ポパーの「反証主義」がマルクス主義哲学などに対する批判から生まれたことを見逃すわけにはいかない。すなわち、両大戦間の混乱期に、ウィーンでは、マルクス主義者たちが毎日のように起こる事件をすべてマルクス理論の正しさを立証するものと主張していたが、これに違和感を覚えたポパーは、そのころ有力だった理論の「検証主義」を疑うようになったのである。どんな事態が起こっても検証されるような理論は、現実には何も説明しておらず、科学的理論でないのではないか、というのが彼の疑念だった。(強調は引用者)
黒田氏の世代では、こういう問題意識があったのだろうが、彼がポパー以後の科学哲学についてまったくふれていないことが気になる。ポパーの反証主義は、クーンのパラダイム理論によって反証されたのだ。ポパーの基準を厳密に適用すれば、シラーのあげた多くの「反証」はEMHを明確に否定しているので、ファーマはノーベル賞どころか学界から葬りさられていいはずだが、そうはならない。

これは科学の手本とされている物理学も同じで、サスキンドなどの提唱する超弦理論や多宇宙理論は、実験や観測で反証できない。だからSmolinもいうように、ポパーの基準に従えば超弦理論は「神学」であって科学ではないということになる。

このように科学的知識といえどもイデオロギーと無縁ではない、ということを初めて指摘したのが、ポパーの批判しているヘーゲルとマルクスである。科学のように啓蒙的な「教養」は日常的な経験を抽象化(疎外)したものだから、彼らの所属する共同体の価値観から自由ではありえない、とヘーゲルは『精神現象学』で述べ、マルクスはこのような価値観を「イデオロギー」と呼んだ。

つまりポパーのナイーブな科学主義は、彼が批判しているつもりのヘーゲルやマルクスが、100年以上前に葬ったものなのだ。それを理解しないで「歴史主義」を批判しているポパーはピエロである。事実はつねに特定のパラダイムの中で意味をもつ理論負荷的な知識であり、裸の「事実」が理論を倒したことはないのだ。

これをよく示しているのが、日銀の量的緩和である。黒田氏の「異次元緩和」の効果はコアコアCPIやBEIで反証されているが、彼は理論を撤回しないで「短期的な調整」だという。こういう言い訳をすれば、リフレ理論は「どんな事態が起こっても検証される」。つまり経済学も物理学も金融政策も、本質的にヘーゲルやマルクスと同じ物語であり、ポパーや黒田氏の信じている厳密な科学はどこにも存在しないのだ。

ただポパーが、科学があらかじめ決められた「真理」に向かって進歩するのではなく、試行錯誤の中で進化する知識だという点を強調したことには意味がある。黒田氏も虚心に事実を見て、自分の理論の誤りを訂正するポパー的な謙虚さをもってほしい。