甦るリヴァイアサン (講談社選書メチエ)
朝日新聞に代表される「反戦・平和・反原発」とお題目をとなえていれば平和が実現すると考えるユートピアニズムは、そう新しいものではない。たぶんそういう思想が明示的に表明された最初の書物は、ルソーの『人間不平等起源論』だろう。

そこでは自然状態では人間は平等で平和に暮らしており、そこに所有権が発生して不平等や戦争が起こった、とされる。こういう歴史観は旧約聖書の創世記からマルクスやレヴィ=ストロースまで受け継がれているが、これに対して自然状態を「万人の万人に対する戦い」と定義して強い国家の必要を説いたホッブズは、絶対君主の擁護者として人気がない。
しかし本書も指摘するように、このような見方は彼の思想を矮小化するものだ。ホッブズは国家を獲得された国家(commonwealth)と設立された国家に分類した。前者は支配者が戦争で得た領土を支配する国家だが、後者は社会契約(pact)で成立するもので、共和制を想定していたと考えられる。ただ、ここでは「主権者」の絶対性が強調されており、国民の抵抗権や政権交代などは想定されていない。

ホッブズが人間を自然状態から脱却させる自然権の根拠としたのは「死の恐怖」である。これはピューリタン革命や名誉革命や三十年戦争など、戦争や内乱の続いた17世紀においては自然な発想だった。自然権は神から与えられた権利ではなく、人々が互いに殺し合う権利を主権者に譲渡する契約によって自然法が成立するとホッブズは考えた。

これは(本書ではふれていないが)ガットなどの最近の歴史学の成果とも一致する。旧石器時代の社会はルソーの想像したようなユートピアではなく、つねに狩猟しつつ移動し、隣の集団を襲撃して獲物やメスを奪い、男は殺したり奴隷にしたりするホッブズ的な社会だった。このような攻撃本能はわれわれの遺伝子に埋め込まれているので、それをコントロールして安全を保つことが、今も国家の最大の役割だ。

ただしフクヤマも指摘するように、戦いの単位は個人ではなく集団だった。強い集団が弱い集団を征服し、支配することによって自然国家ができ、それが成長してホッブズのいう獲得された国家(家産制)になる。これに対して契約ベースの設立された国家(共和制)ができたのは、西洋だけの特殊な現象である。

だから共和制は西洋に固有の伝統に依存しており、不安定だ。ホッブズ以来、多くの政治学者が恐れたのは、専制君主の横暴よりも民衆の暴走だった。愚かな君主はその王家が倒れれば終わるが、愚かな民衆は国家そのものを滅ぼしてしまうからだ。ルソーの「一般意志」を民衆と同一視して直接民主制を求めたフランス革命は5年しかもたなかったが、「国民主権」を否定したアメリカ合衆国憲法は、その後200年以上もっている。

歴史が教えるのは、過剰な民主制は過剰な専制より危険だということである。民衆はつねに金融緩和や景気対策を求め、増税をきらって社会保障を求める。これをコントロールするには、政治を民衆から離して法の支配のもとに置く自然法が重要だ。民衆を信じなかったホッブズやマキャベリが近代政治学の元祖とされるのは、国家の維持のためにはそういうリアリズムが必要だからである。