革命について (ちくま学芸文庫)
アメリカ議会のゴタゴタは、ついに一部行政機関の閉鎖に発展し、雇用統計が出なくなったため、今月末のFOMCで発表されると予想されていたQE3の終了が延期されるという思わぬ経済効果をもたらした。日本人から見て不思議なのは、強大な権限をもつ「元首」であるはずの大統領が無力なことだ。よく首相公選とか「大統領的首相」をとかいわれるが、実は大統領の法的権限はほとんどないのだ。

アメリカで最高の権威をもつのは、裁判所である。よくも悪くも、アメリカではすべてが法律で決まり、紛争は裁判で決着がつけられる。2000年の大統領選挙も、最終的には連邦最高裁が大統領を選んだ。今回も17日のデッドラインを突破しても、大統領権限で債務の上限を引き上げる最後の手段があるようだが、この場合も連邦最高裁の憲法判断が必要になるそうだ。
このように法の支配が徹底しているのが、アメリカの特徴だ。ナチに追われてアメリカに亡命したアーレントは、そこに大陸とは対照的な政治体制を見出した。フランス革命では、ルソーの「一般意志」が法に優越する主権者とされ、絶対君主の座に国民を置き換えようとしたのに対して、合衆国憲法には主権という言葉が出てこない。最高の権威をもつのは法であり、それを超える主権者はいないのだ。
彼らが権力の中心は人民にあるというローマ的な原理に忠実であったというとき、彼らは、それを一つの虚構や絶対者としてではなく、その権力が法によって行使され、法によって制限されている組織された集団という現実に動いている形で考えていたのである。共和政を民主政と区別するアメリカの革命的主張は、法と権力の根本的な分離に、そして両者の起源や正統化や適用範囲の違いに対するはっきりとした認識にもとづいている。(本書p.257、強調は引用者)
アーレントは、このように超越的な主体を排除し、非人格的な法の支配を徹底する共和政が、アメリカ革命を成功させた原因だとした。フランス革命が人々を圧政から解放して「自然権」としてのlibertyを取り戻すことを理想としたのに対して、最初の合衆国憲法には「人権」も「平等」も出てこない。そこではfreedomは人為的な法秩序であり、いかなる意味でも自然な権利ではないのだ。

「自然に帰れ」とか「人工的な原子力をやめて自然エネルギーに」という大衆は、人間の手のつかない無垢な自然がどこかにあると思っているが、そんなものはシベリアの原生林ぐらいにしかない。すべてのエネルギーは人工的に取り出され、そして自然を汚すのだ。自然権への信仰は、革命の理想を絶対化して悲惨な結果をまねく。あらゆる秩序は人為的であり、人々が合意と法によって維持しなければならないというのが共和政の理念である。

日本は天皇制という特殊な制度をとっているためにこの点が見えにくいが、立憲君主政も法が君主に優越するする制度であり、アーレントもいうように近代国家の本質は民主政ではなく共和政にある。政治家が法を超えて原発を止めたり、官僚が企業に「賃上げ要請」したりする日本が近代国家になるのは、いつのことだろうか。