危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)
反原発文化人がよく使う言葉に、ウルリヒ・ベックのリスク社会がある。しかし"Risikogesellschaft"を『危険社会』と訳している訳本は、この概念を根本的に誤解している。リスクとは確率的な期待値であって(確率1の)危険とは違うのだ。青酸カリを飲むことは危険だが、リスクとは言わない。

原著はチェルノブイリ事故を受けて書かれたもので、いい指摘をしている。かつて科学は無条件に進歩を意味すると考えられたが、公害問題によって科学信仰に疑問が生じ、原子力によって社会が科学をコントロールできるのかという疑問が生じた。しかもこうした科学の副作用を調べるのも科学者なので、彼らの自己評価にバイアスが入ることは避けられない。
このように科学が近代社会によって相対化されることを、ベックは再帰的近代化(本書では「自己内省的近代化」)と呼んだ。このパラドックスは、技術が高度化し、巨大化するにつれて避けられない。たとえば携帯電話の電磁波によるリスクは無視できる、と携帯電話会社はいうが、彼らの評価は中立ではない。この種の問題は「原子力村」だけではなく、高度技術社会に遍在しているのだ。

これは科学哲学でいうと、ポパーとクーンの対立と同じである。ポパーは、ある理論に反する実験が反証であるかどうかは科学者が決めると考えたが、クーンは反証とみなすかどうかが政治的な問題だと批判した。たとえばマイケルソン=モーレーの実験は、エーテル説に対する反証だったが、当時のすべての物理学者はその結果を例外的な「アノマリー」だと考え、これを古いパラダイムで「説明」する理論を考えた。

同じように、原子力技術においてアノマリーと考えられていた炉心溶融が現実に起こってみると、「村」の中の科学者はそれに対応できず、大混乱に陥った。このように科学が政治化された時代には、科学者のバイアスを疑う「科学の民主化」が必要だ、とベックはいう。

しかし、その「民主的な」科学者も政治化することは避けられない。かつて原発訴訟で炉心溶融の可能性を指摘したときの小出裕章氏は正しかったが、「1mSv/年でも危険だから完全に除染するまで被災者は帰宅してはならない」という彼の主張には科学的根拠がない。科学を批判することで政治的な人気を得られるようになると、逆のバイアスが入るので、反原発派がつねに純粋で中立というわけではないのだ。

この問題には、原理的に完全な答はない。科学はつねに不完全であり、それを疑う「メタ科学」も不完全なので、相互批判で進化させることはできても、絶対の正解にたどりつくことはありえないのだ。したがって必要なのは、なるべく可逆な(小規模な)技術によって実験を重ねることで、原子力のように失敗の許されない技術は好ましくない――というベックの議論は、タレブに似ている。

これは正しい問題提起だが、こういう考え方をつきつめれば、新幹線も航空機もやめて、移動手段は(それよりリスクの高い)自動車だけにせよということになる。巨大技術は破局的な危険をともなうfragileなシステムだが、全面否定はできないのだ。原子力についても、それを否定すると化石燃料の(原子力より大きい)リスクが生じる。

ただ原子力の中でも、軽水炉のようなfragileな巨大技術は望ましくない。今後は、SMRのようなantifragileな原子炉に変えてゆくべきだろう。もちろんこういう原子炉にもリスクはあるが、それは炉心溶融のような致命的な事故ではない。技術のリスクをゼロにすることはできないし、する必要もないのだ。