近代政治思想の基礎―ルネッサンス、宗教改革の時代
事故も起こしてない発電所が約50基も止まっているのは、世界にも類を見ない異常事態だ。しかもその理由が法的な停止命令ではなく「国民の心情」だという説明が国会で通ってしまうのは、明治から150年たっても日本人が「法の支配」を理解していないためだろう。

「法的な手続きより実質的な安全が大事だ」という類の話はナンセンスだ。もし現行法が国益を守っていないのなら、それは法令の改正で是正するのが法治国家のルールである。ところが民主党政権は、原発に関しては閣議決定さえ一度も出さないで「心情」による行政指導で莫大な損害を日本経済に与え、自民党政権もそれを引き継いでいる。
これはやむをえない面もある。本書が詳細に説明するように、西洋においても法による近代的な共和制の思想が生まれたのは16世紀のフィレンツェであり、その生みの親であるマキャベリでさえ、共和制を論じる『ディスコルシ』と並行して、法を超越する君主を『君主論』で書いたように、法の支配は自明でもなければ確固たる概念でもなかった。

しかし近世の戦争の中で、フランスの絶対君主制が没落し、立憲君主制のイギリスが勝利することによって立憲主義(法の支配)が確立した。国民のみならず国王よりも非人格的な法が優越するという国家思想は、他の文明圏にはみられないものだが、本書はその起源を宗教改革に求める。

キリスト教では神の権威は絶対だが、カトリックではその代理人にすぎない教会が世俗的にも強い権威をもち、免罪符を売ったりしていた。これに対して聖と俗を分離し、信仰のみによって成り立つ教会をつくることがルターの理想だった。この結果、俗権には神の支配が及ばなくなり、皮肉なことに宗教改革は王制を教皇の権威から解放して強化する結果になった。

しかし絶対君主がカトリックと結託して宗教改革を弾圧するようになると、カルヴァン派は「神以外の権威は認めない」として抵抗権(プロテスタンティズム)を主張し、ジュネーブで神権政治を行なった。カルヴィニズムは「神の秩序に反する王制は倒さなければならない」と主張し、神に殉ずることで救済される革命思想になったのだ。

このへんは異論もあって、バーマンは法の支配の原型を12世紀に全欧的に成立した教会法に求めている。いずれにせよ、法の支配の絶対性が神の支配のメタファーであることは間違いなく、キリスト教の伝統のない日本でこういう特殊な思想が一般国民に理解されないのはやむをえない。

しかし政治家は別だ。西洋の数百年にわたる戦争の中で生き残った法の支配は、国家のガバナンスとしてはもっとも強力で効率的なシステムである。日本が幼稚な「心情の政治」でやってこられたのは、アメリカという守護神に守られてきたからだが、いつまでも守ってくれるとは限らない。日本の政治家も、せめて自分の国の発電所を自分で動かせるぐらいまでは成長してほしいものだ。