ヒューム 希望の懐疑主義―ある社会科学の誕生
ヒュームの懐疑主義は、カントを「独断のまどろみ」から目覚めさせたものとして有名だが、これはカントがヒュームの哲学を完成させたことを意味しない。むしろポストモダン的にみると、ヒューム的な懐疑を徹底しないで「超越論的主観性」という絶対者を置いたカントのほうが後退したともいえる。

本書は、こうしたヒュームの懐疑主義が彼の政治・経済論の基礎になっていると論じる。ヒュームの問題として知られるように、自然科学で絶対のようにみえる因果関係は主観的なものだが、逆に社会の中にも(だいたいの)因果関係を見出すことはできるかもしれない。この意味で、ヒュームにおいて「社会科学が生誕」したのだと本書は論じる。
しかし社会科学における因果関係は、自然科学よりはるかに曖昧で不確実だ。たとえば国家がどうやって生まれたのかという問題は、実験で確かめることができない。ホッブズは国家を「万人の万人に対する戦い」から生まれた契約によって説明するが、ヒュームは「契約はそれを強制する国家が存在しないかぎり成り立たないのだから、ホッブズの議論は論点先取だ」と批判する。

ホッブズにとって社会の本質は、先験的主観でも国家理性でもなく、慣習(convention)である(本書は「黙契」と訳している)。これは人々の間主観的な相互作用から出てくる言語のようなルールで、起源も根拠も明確ではないが、支配的な慣習から人々は逃れることができない。この慣習を実定法にしたものが国家だから、その根拠は絶対的なものではありえない。

したがってヒュームは、ロックの自然権を否定し、基本的人権とか所有権が「神から与えられた」権利としてアプリオリに保証されているという市民革命のイデオロギーは信仰にすぎないとする。こうした権利は、各自の既得権を侵害しないことによって平和を守る慣習から生まれたもので、絶対的な根拠はない。したがって「主権在民」などというスローガンも幻想であり、民衆に政治をまかせるとフランス革命のような流血の混乱が起こるだけだ。

ヒュームの共和主義で絶対的な地位を与えられるのは人間の理性ではなく、慣習を洗練して生まれる法の支配である。これはアポステリオリな約束事だから、人間が変えることができるが、それは絶対的だから十分な知識をもつ専門家が決めるべきで、民衆が政治を動かす「参加民主主義」は排除しなければならない。この点でヒュームの思想は、バークとともに合衆国憲法に大きな影響を与えた。

したがって議会(立法府)とは、人々が信じているように主権者たる国民の「民意」を政治に反映するための制度ではなく、専門家が国家をコントロールする制度であり、選挙はそれを数年に一度チェックするだけだ。むしろ現代のように法の支配の外側にあるメディアの影響が大きくなると、議会の決定が攪乱され、衆愚政治に近づいてゆく。「ネット民主主義」はそれをもっと悪化させるだろう。

西洋型の国家が衰退しつつある一つの原因も、法の支配の絶対性が失われ、政治的な裁量に歯止めがなくなったことだ、とファーガソンは論じている。それに代わって台頭しているのが、中国などの「法の支配なき資本主義」だとすると、ヒューム以来の共和主義を再評価し、オーバーホールすることは、現代的な課題である。