企業・市場・法
コースが死去した。寿命も長いが、100歳を過ぎて本を出版した生産性も高い。本書には「社会的費用の問題」(1960)と「企業の本質」(1937)という有名な論文が収められている。この他に「連邦通信委員会」(1959)を含む3本が、コースの業績のほとんどすべてだが、影響力はどんな経済学者より大きい。

1960年の論文は、今なお法学雑誌の引用回数トップである。これは大気汚染などの「迷惑なものを取引する」という発想を初めて発表したもので、のちに「コースの定理」として定式化され、排出権取引として実用化された。1959年の論文は周波数オークションを提案したものだ。そして1937年の論文は、一昨日の記事でも紹介した「企業はなぜ存在するのか」という問題を論じたものだ。
「秀才はむずかしい問題を解くが、天才は一見簡単な問題を出す」とEconomist誌は書いているが、企業が存在するのは当たり前の事実に見える。しかし新古典派の想定するように、人々が合理的で完全な知識をもっているなら、必要なとき必要なだけ資金や労働サービスを借りればいいので、資本なんて必要ない。この意味で、新古典派理論は資本主義を説明できないのだ。

コースはこの問題を取引費用という素朴な形で定式化し、のちにウィリアムソンやハートが精密化した。これは単に市場で売買する費用のことではなく、重要なのは契約が守られないコストである。標準的な資本主義では、労働者が命令に従わなければ解雇する権利を資本家がもつことで契約を守らせるが、日本では長期的関係で守らせる。

のちにコースも指摘したように、こうした長期的関係は欧米の企業にもあるが、グローバル化が進展するにしたがって日本型の人間関係に依存したしくみの有効性が低下することは避けられない。この点では、だますことが当たり前で、それを防ぐ担保が発達している中国人のほうがグローバル化しやすいかもしれない。

コースの論文には、数式は1本もない。彼は最近の論文で「経済学者はますます学界のために論文を書くようになった」と嘆いている。それは学問が制度化するとき、ある程度は避けられないことだが、経済学の場合は滑稽だ。きょう届いた日本経済学会の学会誌の理論的な論文は、すべて「定理・証明」という形で書かれている。こう書かないと、レフェリーに読んでさえもらえないのだ。

しかし経験科学で、こんな数学みたいな書き方をしている学問は他にない。工学や生物学の論文で、定理とか証明というのは見たことがない。コースも警告するように、経済学はアダム・スミスの時代から政策科学だったのであり、古典力学をモデルにするのは筋違いなのだ。

だからオークション理論がいくら精密化されても、総務省は周波数オークションを拒否し、いやいや法制化したと思ったら、今度は自民党が元に戻そうとしている。経済学がモデルにすべきなのはむしろ医学であり、医者の理解できない基礎医学の理論をいくら精密化しても意味がない。いま必要なのは、頭の悪い官僚や政治家を説得する技術も含めた「臨床の知」である。