かつて勤務した会社から、顧問弁護士の署名捺印つきの「内容証明」の手紙をもらうというのは、奇妙な気分である。先月、NHKの海老沢会長と顧問弁護士から私に届いた「訂正と謝罪の要請」には、こう書かれている:
貴殿が1月31日、メーリングリスト"digitalcore"上に掲載した 「地上波デジタルの断末魔」と題するメッセージの中に、事実と全く異なる記述がありました。[…]協会が「理事会で地上波デジタル放送の開始を 2005年に延期」したという事実はありません。従って「この決定をなかったことにした」事実もありません。[…]そこで貴殿に対し、(1)この根 拠となる具体的な事実を示すこと、もし(1)について明確な回答を示せない場合には、貴殿は社会に対して自らの発言を訂正するとともに、協会に対して謝罪 することを求めます。
その回答が満足のいかないものなら「法的措置を検討する」そうだが、まず驚くのは、ここで「訂正と謝罪」を求めている対象が電子メールだということである*。これは公の場所に「掲載」されたわけではなく、特定のメンバーに宛てた「私信」である。どうやら「2ちゃんねる」のような電子掲示板と取り違えたらしいが、これは「信書の秘密」の公然たる侵害である。

3600万世帯の視聴者を持つNHKが、メンバーがわずか150人のメーリングリストを相手に「法的措置」を取るというのは、笑い話にもならない。これを 読んでいるメンバーは特定されているので、「社会に対して訂正」する必要なんかない。文句があるなら、NHKの会長も同じメーリングリストに参加して反論 すればよいのである。「電子メールを対象にした名誉毀損訴訟というのは聞いたことがない。もしも実際にやったら、NHKは物笑いの種になるだろう」という のが弁護士の意見である。

それにしても、他人の私信の内容をなぜNHKが知っているのだろうか?このメーリングリストは非公開だから、問題の電子メールは規約に違反して持ち出され たか、盗聴などの違法な手段で入手された疑いもある。違法な手段で得た文書を法廷で証拠とすることはできないから、入手した経路を明かさない限り、文書 (この場合は電子メール)には証拠能力はない、というのが確立した判例である。私は、この種の内容証明の手紙をもらったのは初めてではないが、これは普通 は(言論で対抗できない)政治家や悪徳業者などが使う手口である。言論機関がみずから脅す側に回るというのは、あきれた話だ。「エビジョンイル」と呼ばれ る独裁者には、批判も許されないらしい。NHKは、いつの間にこんな情けないメディアになってしまったのだろうか。

デジタルコアでこの事件を公表したところ、100通以上のメールが寄せられたが、内容は「NHKはこれでも言論機関か」「日経新聞は抗議すべきだ」といっ たものばかりで、NHKに同情的な意見は1通もなかった。デジタルコア事務局は「非公開のメーリングリストの内容が外部に持ち出され、圧力がかけられたこ とはきわめて遺憾である。規約に違反したメンバーは謝罪し、脱会せよ」という公式見解を出した。もしも裁判を起こすなら、NHKは日経新聞から「編集権の 侵害」を逆に訴えられることも覚悟したほうがよい。

奇妙なことに、当の内容証明が私に届く前に、経済産業省の官房長あてにNHKの理事の名前でこの文書を同封した手紙が届いた。この手紙では、電子 メールの中の「NHKでは、国会答弁の失敗が原因で会長が2代続けてやめている」という記述が「品位がない」と非難されていて、彼らが何を恐れているのか よくわかる。毎年、国会でNHK予算案が審議される3月ごろになると、NHKの経営陣や国会担当者はピリピリし、ちょっとした問題にも過剰反応する。今回 も、国会で追及されたとき「その話は嘘だ。抗議した」と言い逃れができるようにアリバイ作りをしたのだろう**。

「いったん地上波デジタル放送を2005年に延期すると決めたが引っ込めた」という些細な話に、NHKがこんなに大騒ぎするのは、この計 画が完全に破綻し、国会で追及されたら助からないからだ。たとえ形の上で2003年に「試験電波」を出したところで、既存のUHF局と混信が起こるため、 実際の放送は開始できない。本放送を行うには、全国のUHF局の周波数を変えて400万世帯以上のテレビの設定を変える「アナアナ変換」が必要だが、予算 は当初の予定の850億円から2000億円以上にふくれ上がってしまった。残りの1000億円以上をどうやって調達するのか、目途も立たない。

しかし実は、アナアナ変換なんて必要ないのである。東京に住んでいる人なら「なぜ2チャンネルは映らないのか」と子供のころ疑問に思ったことはない だろうか?実は2チャンネルには、1チャンネルと同じ6メガヘルツの帯域があり、そこで放送することも可能である。これは電波が混信しないために周波数の 間隔をあける「ガードバンド」だが、6メガヘルツもあけるのは50年前のテレビを基準にしたもので、現在では片側1メガヘルツも余裕があれば十分だ。実際 には、放送で使っている帯域は4.2メガヘルツだから、すきまの2チャンネルはほぼ丸々使えるのである。

同様に、日本テレビは5チャンネル、TBSは7チャンネル・・・と空いているチャンネルを使えば、今すぐにでもデジタル放送ができる。最初は普通の テレビとデータ放送だが、夜間にファイル転送してハードディスクに蓄積する「蓄積型放送」ならHDTV(いわゆるデジタルハイビジョン)も見られる。これ なら今のアンテナでチューナーを取り替えるだけで見られるから、デジタル放送の普及の障害とされているUHFのアンテナを新たに立てる必要もない。

こんな簡単な「コロンブスの卵」が見逃されていたのは、「放送はUHF帯に集約し、VHF帯は業務用無線に明け渡して有効利用する」という30年以 上前の方針をいまだに総務省が守り続けているためだ。この方針に従って1970年代以降、地方の新設局はUHFしか認められなかったため、地方ではVHF 帯は丸々あいている。ところが結局、VHF局が1局も郵政省(当時)の指導に従わなかったため、有効利用どころかUHF・VHF両方ふさいで370メガヘ ルツも浪費する最悪の結果となった。こういうアナログ時代の電波政策を白紙に戻し、逆にUHF局をVHFに集約すればよいのである。これなら放送業界のき らう「水平分離」も必要ないし、通信と放送の「垣根」も今のままだ。その代わり、UHFの300メガヘルツはすべて無線インターネットに開放することが条 件である。

電子メールと掲示板の区別もつかないテレビ局がブロードバンド時代に生き残るのは絶望的だが、心配することはない。インターネットが社会全体のイン フラとなるには、少なくともあと5年はかかるだろうし、1億台もあるアナログテレビがなくなる日は向こう10年は来ないだろう。ブロードバンドはUHF帯 に新規参入する企業にゆだね、テレビは高齢者向けの「伝統産業」としてVHF帯で棲みわければよいのである。

*このときの理事会決定は、正確にいうと「2005年に 延期することを総務省に陳情しよう」というものだった。しかし何者か(おそ らくメーリングリストに入っていた総務省の官僚)からこの電子メールを転送されると、あわてて否定して私を脅迫したものだから、引っ込みがつかなくなってしまっ た。結果的には、この私のスクープ(?)を否定したことが、2003年に無理やり放送開始する原因となったらしい。

**この手紙は、実際に2002年のNHK予算審議で 問題になった。民主党の永田議員の「批判に対して訴訟で脅すのは言論機関にあるまじき行為だ」との追及に、NHK側はうろたえるばかりで何も答えられな かった。永田氏の「池田氏の投稿が嘘だというなら証拠を出せ」という要求に対して、NHKは「理事会の議事録を出す」と答えたが、のちに「議事録 はない」と回答してきた。