「リベラル保守」宣言「私は**派だ」と宣言する連中にろくなのはいないが、本書もその例外ではない。著者(中島岳志氏)のいう「リベラル保守」とは、漸進的改良しか認めないというバークの口まねで、内田樹氏などと一緒に「反グローバリズム」を主張し、大阪市の橋下市長の改革に反対している(なぜあれがグローバリズムなのかわからないが)。

まえがきによれば、これは西部邁氏の影響だそうだ。私は西部氏が東大に赴任したときの最初のゼミ生だが、その当時の彼は「ソシオエコノミックス」とか言って、それなりに経済学をやっていた。それが学問的に行き詰まり、中沢新一騒動で大学を辞めてから「保守論壇」で飯を食うために、あらゆる改革を全面的に否定する商売を始めた。
これはちょうど冷戦末期の左翼が没落する時期には、なかなか巧妙なマーケティングで、「朝まで生テレビ」に毎月のように登場し、毎週のように地方で講演していた。田原さんも「西部さんが日本の論壇を変えた」といっていた。そのころ彼の影響を受けて、本書の著者や中野剛志氏のようなエピゴーネンが出てきたわけだ。

西部氏の影響を受けている人々の共通点は、基本的な勉強が欠けていることだ。西部氏は安保条約の条文も読まないで60年安保に反対し、東大に赴任してきたころはバークもハイエクも知らなかった。私がフリードマンの『資本主義と自由』についての書評を書いたら、「大学にこういう保守主義が広まるのはよくない」と批判していた。それがフリーで商売するようになってから、保守を売り物にするようになったのだ。

本書もそういう底の浅い保守主義の受け売りで、前半はバークやオークショットなどの紹介だが、バークは制度改革を否定したわけではなく、アメリカの独立革命を支持した。ハイエクも『自由の条件』のころは慣習や伝統を重んじる保守主義だったが、『法と立法と自由』では、逆に制度設計こそ自由な社会の条件だと考え、司法や国会の改革を提案している。

保守を自称する著者が、反原発を主張するのも奇妙だ。彼は「原発より自動車や石炭火力のほうがはるかに危険だ」という私の批判を読んだらしく、苦しげな「反論」を延々としているが、要するに「世の中には人命より大事なものがある」ということらしい。彼にとっては交通事故で死ぬ人の命より自分の「保守の信念」のほうが大事なのだろう。

国粋主義的な「明治の保守」が高齢化して消えてゆくのは結構なことだが、代わりに著者のような自称保守が、「新自由主義」を呪う山口二郎氏のような「昭和の左翼」と結託し始めた。彼らに欠けているのは、21世紀の日本が直面している経済停滞と財政危機についての問題意識だ。

人口の減少する日本で政府や自治体の浪費や原発の停止を放置しておくと、何兆円という負担が最終的には納税者に回ってくる。本書は、そういう社会的コストを考えないで反原発などのきれいごとをいう福島みずほ症候群の変種にすぎない。こういう連中を評価する向きが、民主党の一部にあるのも困ったものだ。こんな偽保守主義では、自民党に対する新しい対立軸は絶対にできない。