昨夜の霞ヶ関総研は夏野総研までなだれ込んで、「あなたの知らない戦後の黒歴史」で3時間以上盛り上がった。石川さんも夏野さんも私より10年ぐらい下で、内ゲバは知らなかった。ニコ生のスタッフも「大学の中で殺しがあったなんて知りませんでした」と驚いていた。

学生運動といえば、安田講堂の攻防戦とか連合赤軍とか突出した事件しか人々の記憶に残っていないと思うが、私の時代までは学生の半分ぐらいは何らかの形で左翼にかかわっていた。共産党系の民青もいたが、流行していたのは新左翼で、東大では革マルが多かった。中核と革マルは、もとは革共同という同じ団体の分派だから似たようなものだが、この両派の内ゲバが一番ひどかった。

戦後の左翼の元祖は共産党で、終戦直後には山村工作隊や火炎瓶闘争などの暴力革命路線をとり、セゾングループの堤清二氏なども当時の党員だったが、1955年の6全協で議会主義に転換した。これに不満をもって学生を中心とする極左が結成したのが共産主義者同盟(ブント)で、これが60年安保の全学連主流派だった。江田五月氏や西部邁氏や青木昌彦氏はその幹部だった。

ブントは60年安保の敗北後、散り散りバラバラになったが、武装闘争路線を継承したのが革共同だった。それが60年代後半にベトナム反戦運動と合流してふたたび盛り上がり、「三派全学連」は羽田や佐世保で警官隊と衝突して大量に逮捕され、多くの裁判が起こった。このとき彼らを弁護したのが仙谷由人氏などの「救護班」だった(仙谷氏自身は穏健派のフロントで、武装闘争にはかかわっていない)。

私が大学に入ったころまでは、キャンパスで日常的にバリケード封鎖や機動隊の放水などが起こっていたので、あのころ学生運動に何も関心がなかったのは、社会的な感受性のない鈍感な学生だけだった。学生のとき「資本主義は根本的に間違っているのではないか」という疑問をもったことが、社会を批判的に見る目を養ったと思う。戦前から、日本のインテリはマルクスを卒業することによって思想的な立ち位置を決めたのだ。

そういう対立軸が冷戦時代まではあったが、社会主義の崩壊でなくなってしまったように見える。しかしきのう石川さんも言っていたように、社会主義が日本でもっとも強く残っているのは霞ヶ関だ。戦前に軍部と結託して満州国を建設し、戦後も一貫して自民党の中枢にいたのは岸信介であり、彼の理想とする国家社会主義を実現するためにつくられたのが通産省である。

岸が師と仰いだのが二・二六事件の指導者、北一輝だった。いいかえれば、青年将校が二・二六で果たせなかった国家社会主義を満州国で実験し、それを戦後の日本で実現したのが通産省だったのである。この評価にはいろいろあるが、アセモグルなども指摘するように、途上国が発展するためには一定の「本源的蓄積」が必要であり、岸の開発主義がその役割を果たしたという肯定的な評価も多い。

岸の理念は徹底的なエリート主義であり、一部の優秀なリーダーが国家を指導することが最善で、議会は国民をあやつる道具にすぎないという発想だったので、収賄や買収を平気でやった。この点では極左と共通する点があり、彼らも愚昧な民衆の選んだ議会より「前衛」による暴力革命のほうが有効だと考えていた。社会党や共産党はそれを薄めた二番煎じだから、日本の政治には左右の社会主義しかなかったのだ。

だから霞ヶ関のコアにあるのは岸以来の国家社会主義であり、それは経産省の好きな「ターゲティング・ポリシー」や総務省の電波社会主義に今も受け継がれている。自民党は、それを追認して国会を通すエージェントにすぎない。そして安倍首相は、まさに岸の孫であり、彼の意を受けた黒田日銀のターゲティング・ポリシーも岸の悪しき遺産だ。自民党の憲法改正案にも、国家社会主義への回帰願望が見られる。

民主党に弁護士が多いのも、大学紛争でドロップアウトした人々の集まりが日弁連だからである。菅直人氏が東工大を出て就職できなかったのも、学生運動のおかげだ。そういう日本社会の裏街道を歩いてきた団塊世代のルサンチマンが爆発したのが、民主党政権だった。

だから民主党の崩壊は、こうした左右の社会主義を清算するいいきっかけだ。団塊の世代以上には退場してもらい、こうした日本の暗い歴史とは無縁の40代以下の政治家と官僚が、フレッシュな発想で政治を建て直してほしい。