ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)明日からアゴラ読書塾で「グローバル資本主義を読む」というシリーズを始めるが、その中でも重要なテキストはドゥルーズ=ガタリ(D-G)の『アンチ・オイディプス』だ。本書はそれをドゥルーズの側の新しい視点から読み解く好著である。

著者も最初に書いているように、ドゥルーズ個人の著書とD-Gを読むと、とまどうのは、前者が文献学的で内省的なのに比べて、後者が自由奔放で政治的な文体で書かれていることだ。これはD-Gの草稿を読むと明らかなように、D-Gが基本的にはガタリの本であり、ドゥルーズはそれを整理して理論化する役割だった。

とはいえ、ドゥルーズの側からみると、ガタリとの出会いには必然性があった。『差異と反復』のころのドゥルーズは、いい意味でも悪い意味でも構造主義的で、きわめて抽象的で静的な概念で社会をとらえようとしていた。それに対して、具体的な精神医療の改革や政治運動にかかわっていたガタリは、資本主義を脱コード化再コード化のダイナミズムでとらえようとしており、D-Gは構造の代わりに機械という概念を基礎に置いた。

ここで機械を動かすのはシニフィアンとシニフィエの戯れではなく、人々の欲望のアレンジメントとしての権力である。この点で彼らの方向は、同じ時期に権力の問題と取り組んだフーコーと共通する点がある。ドゥルーズは『フーコー』で『監獄の誕生』を高く評価しながら、その限界を指摘する。国家権力は、パノプティコンのような中央集権的な規律訓練ではなく、もっとミクロな生活の中で人々の自発的な欲望を駆動する形で機能するのだ。

この問題は、実はフーコー自身が死後に公開された講義録でものべていた。彼は暴力によって拘束する初期近代の生政治から「自由な個人の等価交換」という形を取って人々を巧妙に支配するハイエク的な自由主義こそ、生政治のもっとも洗練された形態とみていたのだ。

最晩年に『マルクスの偉大さ』という著書を書いていたといわれるドゥルーズにも、元共産党員のフーコーにも共通するのは、マルクスの強い影響である。その意味で、今も資本主義を語ることは(否定的にせよ肯定的にせよ)マルクスを語ることであり、ウォーラーステイン風にいえば、われわれは「長いマルクスの時代」がようやく終わろうとする時に生きているのかもしれない。

*読書塾は当日まで申し込めます。また東京以外の方もUstream中継でみられます(学生料金)。