浜田宏一氏もインフレ目標は「なくてもいい」と認めたことで、この問題は学問的にはほぼ決着がついたので、今回の騒動を理論的に整理しておこう(非常にテクニカル)。

黒田氏の「異次元緩和」の政策手段は次の3つである:
  1. 国債の買入れで長期金利の低下をうながす
  2. 銀行が国債を買わないで貸出をするようになる
  3. インフレ目標で市場の期待を変える
このうち、AはFRBのLSAPと同じだが、Cは黒田氏だけの発想である。FRBのインフレ目標は通常の抑制目標であり、デフレをインフレにしようとしたのは世界初の実験である。その意味を、クルーグマン論文をさらに超簡単にした2期モデルで考えてみよう。効用関数Uは次のように、今期の消費cと来期のc2に割引因子δをかけたものの和とする(*)

 U=c+δc2・・・(1)

これは彼のモデルからリスク回避度を省略したもので、これ以上簡単にできない動学モデルである。このとき金利はi=(1-δ)/δで一定になる。金利がプラスの場合は、来期のマネーストックM2と所得y2を一定とし、貨幣の流通速度を1とすると、来期の物価P2はM2の量で決まり、P2=M2/y2となる。

ここから今期の価格を決めよう。今期の変数はサブスクリプトを省略すると、Pc = Py = Mだから、同様に貨幣数量説が成立して

 P=M/y・・・(2)

第2期の物価水準P2を所与とすると、今期と来期の消費の配分は、実質金利がiのとき、今期の消費を(1+i)P減らすことで来期に(1 + i)P2だけ余計に消費できるが、その現在価値はδで割り引く。最適な状態では両者が無差別になるので、今期の消費の限界効用をc、来期をc2とすると、最適消費は(1)式から次のようになる。

 c/δc2=δP(1+i)/P2・・・(3)

この関係は、「固定価格経済」でP2を所与とすると、金利iと物価水準Pの関係として示すことができる。均衡状態ではc=yとなるので、今期と来期の消費の最適配分c/δc2は、価格水準Pと金利iで次のように決まる。

 c=y=y2P2/δP(1+i)・・・(4)

これを均衡させる金利iとPの関係は、(4)を整理して

 1+i=y2P2/δPy・・・(5)

となる。これが次の図のIS曲線CCである(ここではcを投資需要と考えている)。貨幣供給MMは所与なので、CCとの交点1で実体経済が均衡し、インフレにもデフレにもならない。このような均衡実質金利i*を自然利子率と呼ぶ。
流動性の罠
ここでi*≧0であれば何の問題もなく均衡が達成されるが、何かの理由で投資が大きく減退してIS曲線が下方にシフトすると、3のように自然利子率 i'がマイナスになる場合がある。このとき名目金利は0以下に下げることはできないので、i>i'となり、金利iが自然利子率を上回って投資が不足する流動性の罠に陥る(これはヒックスの定義とは違う)。

これを解決するもっとも常識的な政策は、投資を増やしてIS曲線を上方にシフトさせる(潜在成長率を上げる)ことだが、それが何らかの理由でむずかしい場合、インフレ予想を起こして実質金利iをマイナスにするという手段がある。

ここで予想インフレ率をE=P2/Pとし、名目金利rがフィッシャー方程式r=i+Eで決まるとすると、E=r-i'とすれば、実質金利iがマイナスになってi=i'という均衡が実現する。しかしクルーグマンのモデルの弱点は、予想物価水準P2が外生変数なので、Eの決まるメカニズムが欠けていることだ。

今期の物価水準は(2)によってMで決まるが、ゼロ金利では来期の物価を中央銀行が操作できない(**)。彼も「期待を実際にどう作り出すかは、ある意味で通常の経済学の領域外の問題だ」と認めている。その考え方は、いくつかある。
  1. 中央銀行が、たとえば「4%のインフレを15年間続ける」と宣言する
  2. 何らかの理由でインフレになってもゼロ金利を続けると約束する
  3. がむしゃらにマネタリーベースを増やし続ける
1はクルーグマンの提案だが、これは中央銀行がインフレを起こす手段をもっていないと、単なる呪文でしかない(と彼も認めた)。2は日銀の時間軸政策で、この有効性はEggertsson-Woodfordなども証明した。しかし流動性の罠では、中央銀行がインフレを起こすことができないので、いつ実現するかわからない。そこで黒田氏は「めちゃくちゃにカネをばらまくぞ」と宣言して期待を盛り上げる3の実験をしたわけだ。なぜ期待が盛り上がるのかは不明だが、効果はやってみないとわからない。

しかし結果は長期金利が上がっただけで、予想インフレ率はほとんど上がらなかった。呪文を信じるほど、市場はバカではなかったわけだ。また、あまり上がると財政負担が増えるため、異次元緩和は封印せざるをえない。このようにインフレ予想を操作することはきわめて困難で、また予想外の副作用が出るので、ゼロ金利では金融政策は無効である――というマクロ経済学の常識を黒田氏の実験は証明したことになる。

これは学問的にも興味ある結果で、クルーグマンのモデルでは心理的な外生変数になっているEを安倍首相の「輪転機ぐるぐる」発言が引き上げたと解釈することもできよう(株価のほとんどは異次元緩和の前に上がっている)。予想を変えるのは、中央銀行ではなく政府の役割なのかもしれない。

この意味で、アベノミクスの最大の功労者は、市場心理を盛り上げた安倍首相であり、浜田氏のいうようにGDPギャップが解消されたら金融政策は必要ない。これ以上むやみに「バズーカ」を連発するのは市場を混乱させるだけなので、異次元緩和は早めに撤回したほうがいい。

(*)山形訳はdiscount factorを「割引率」と誤訳している。これは割引因子の逆数で通常は金利に等しいので、以下の計算はまったく意味不明なのだが、リフレ派は誰も気がつかなかったのだろうか。

(**)理論的には、P2をforward-lookingな合理的予想と想定することもできるが、その場合には流動性の罠は生じえない。またマンキューのように適応的予想で考えることもできるが、この場合は予想に経路依存性があり、内生的に変化しない。