風土―大地と人間の歴史 (平凡社選書)所属する組織を超えてヨコに動きにくい「タテ社会」は、半世紀前に中根千枝氏が指摘したように、アジアにも例をみない奇妙な特徴である。なぜこういう構造ができたのは、人類学でも社会学でもはっきりした答がないが、私は稲作農業にそのヒントがあると思う。

本書は稲作農業の歴史とその村落との関係を実証的に論じたものだが、西洋の農業と日本の違いは大きい。西洋では三圃制のもとで独立性の強い畑作が中心だったが、日本は近世以降、稲作が中心になったため、大量の水がつねに必要になり、水田は川沿いにつくられ、農業にとって水の管理が圧倒的に重要になった。

それぞれの田はもともとは共有だったが、江戸時代以降、私有になっても、用水路によってつながり、「田越し灌漑」によって緊密にむすびついていた。したがって農民どうしのつきあいも緊密で、喧嘩はできなかった。一時的にでも争って水を止められると、田が干上がってしまうので、どんなことがあっても争わないことが日本社会の絶対的規範になった。

もう一つの特徴は、川の水を流域全体で共有したため、田に分水する用水組合が重要な役割を果たしたことだ。中国のような大規模灌漑では全体の管理者(皇帝)が運河の水量を決めるが、日本では川の水量は決まっているので、分水量は末端の部落の必要量で決まる。組合が部落の利害調整をして水の分配が決まり、そして多くの組合を調整して上流の組合の分配が決まる・・・というようにボトムアップで水の分配が決まった。

この構造は、天皇制に代表される日本型デモクラシーに似ている。そこでは最上位にいる天皇は、ボトムアップの決定を承認するだけで拒否権をもたない。その下の摂政や関白も調整するだけで、実質的な決定は現場で行なわれる。こうしたボトムアップ構造が現代まで受け継がれてできたのが日本の企業である。玉城哲は日本の部落の強さと不自由さをこう書いている。
話を聞きながらいつも、部落とは何と不自由なところだろうと感ぜずにはいられない。誰の息子はどうしたとか、どの家のふところ具合はどうだとかいう家庭の内情まで知り尽くしているのである。こんなところで生活したら、すぐ息が詰まってしまうだろうとしか思われないのである。事実、この息が詰まるような部落を捨てて、多くの農村の少年や青年が都市に出ていった。(p.300)
日本人はいつも、タコツボ的な部落に閉じこもっていたわけではない。高度成長期に、若者はタテ社会を脱出し、ヨコに動くことで自由を獲得したのだ。それは彼らの中に、自由を求めるノマドの遺伝子があるからだ。労働者にとっても企業にとっても、こうした農村的な構造を超えて、新しい世界をさがす時期ではなかろうか。