アゴラの書評の補足。丸山眞男は天皇制に象徴される「まつりごと」構造を講義では日本型デモクラシーと呼び、その特異性を考察している。これは現在の政治を考える上で重要なヒントを提供している。

デモクラシーを「民主主義」と訳して近代政治の必要条件だと思うのは間違いである。フクヤマもいうように、市民革命はデモクラシーによって起こされたのではなく、国王に対して貴族やブルジョワジーなどのインサイダーが起こした反乱だった。人口の圧倒的多数を占める一般大衆が普通選挙で政治的意思決定に参加したのは20世紀以降である。

日本では、このような意味でのデモクラシーは必要なかった。天皇のような最高権力者はつねに「みこし」としてまつり上げられ、対外的な儀礼などを行なう名目的な権威になり、実質的な意思決定はみんなで相談して全員一致で行なわれるからだ。

これは西欧のデモクラシーとは似て非なるものである。そこで行なわれる意思決定は非公式の口約束で、文書化されない。摂政・関白も将軍も律令に書かれていない「令外の官」であり、政策も非公式の群臣会議で決まった。メンバーはずっと同じなので、あらためて文字にする必要がないのだ。
天皇は皇位継承者の決定や開戦の可否等の重大決定は、大臣・大連の群臣会議に諮問し、その奏上にしたがうのが通例であった。しかし、これはde factoに諮問したのであって、西欧の貴族王制のように、貴族と王との黙示的=明示的契約によって、貴族のconsentが王の行政権の法的要件であり、貴族が王の決定にvetoの権利をもつ制度とは精神を異にしている(『丸山眞男講義録6』)
西欧では戦争が日常化しており、国王と貴族の関係は流動的だったので、約束を法律の形で書く必要があった。デモクラシーは国家権力を法的に制限する法の支配を支える制度なので、立法を行なう議会が統治機構の中心になった。

しかし天皇に権力のない日本では法の支配は必要ないので、国会には立法機能がなく、政治家の仕事はタコツボ的な官僚機構の調整である。それを知っている自民党は立法機能を官僚に丸投げしたが、理解していない民主党は「政治主導」を掲げて政官の関係を壊してしまったため、官庁の利害の一致しない問題を政治が決められなくなった。

きのうアゴラチャンネルで石川和男氏と話した原子力規制委員会の暴走も、その結果だ。次々に原発を廃炉にする規制委を経産省は唖然として見ているらしいが、手が出せない。おまけに安倍首相は参院選までは極端な安全運転で、TPPや原発や日中関係など合意の得られない問題をすべて先送りし、抵抗できない日銀をいじめている。

しかし安倍氏も、ようやく動かざるをえなくなった。日米共同声明では、曖昧にしていたTPPや原発についての見解を、いやいやながら表明した。つねに外圧でしか動かないのも、日本型デモクラシーの特徴だ。それはインサイダーの合意を実現するために、対立や紛争を徹底的に抑圧するシステムだからである。