神を哲学した中世: ヨーロッパ精神の源流 (新潮選書)中世のスコラ哲学というと、日本人にはおよそ縁遠い世界にみえるが、これを理解することは現代を考える上でも重要である。『「日本史」の終わり』でも論じたように、西洋世界の「大分岐」を準備したのは中世であり、近代社会はキリスト教を否定して生まれたのではなく、キリスト教から生まれたからだ。

スコラ哲学の一貫したテーマは、神の存在である。これは哲学が「神学の婢」だったことからして当然だが、神の存在を証明しようとしたのは中世初期のアンセルムスのころまでで、スコラ哲学最盛期のトマス=アクイナスのころには、神がいかに存在するかに関心が移り、世俗的な問題を神学的にどう説明するかについてのテクニカルな議論が詳細に展開された。

しかし後期のドゥンス=スコトゥスやオッカムのころになると、神の存在を疑う理論が出てくる。もちろん公に神の存在を否定することは許されないので、彼らはそれを普遍の存在という暗号で語った。それが普遍論争である。スコトゥス派は普遍的な摂理の存在を証明するために実験して加速度の法則を発見したが、オッカムは普遍は万物に内在するもので、それ以外に普遍(神)は存在しないと論じた。

著者もいうように、この摂理という概念が西洋近代を理解する鍵である。それは自然が神の計画(摂理)によって創造されたという強い仮説であり、摂理の概念が世俗化されたのが目的である。国家や企業などの目的をもつ機能集団は、キリスト教会や修道院を母体として生まれたものだ。

中世は戦争や疫病の続く不安な時代であり、コミュニティはつねに破壊されたので、人々は世俗的な秩序に精神的なよりどころを求めることができず、教会の権威にすがった。そこでは地域を超えた普遍的な神が必要とされ、戦争から自衛するために全国民に命令する絶対君主が必要とされた。

日本人が西洋近代を理解できない根本原因は、この中世を経験していないことにあると思う。われわれは幸いなことに、そういう絶望的な状態に置かれたことがないため、現世のローカルな秩序を超える普遍を必要とせず、日本には部族社会の思考様式が残っている。そのどちらが多数派かといえば、日本が明らかに多数派である。歴史的にも地理的にも、ほとんどの社会は目的をもたないで進化する自生的秩序である。

スコラ哲学は歴史上ヨーロッパ中世に一度だけ生まれた、きわめて特殊な思考体系だが、自然に摂理があるという仮説を信じて実験を繰り返した人々が自然法則を発見し、これが西洋の飛躍的な発展をもたらした。それはいまだに科学者も理由を説明できない偶然だが、それによってテクノロジーが生まれ、社会も機能的に設計された。

だから日本人がいまだに西洋近代になじめないのは当然だが、それを「市場原理主義の暴力」とか「技術が人間を疎外する」とかいう通俗的な言葉で表現してみても、その本質をとらえることはできない。ハイデガーも指摘したように、近代の科学=技術を乗り超えて生命の豊かさを獲得するには、「世界は目的をもつ」という仮説を疑う必要があるのだ。