日本政治思想史研究本書の初版は1952年、収録されている論文が書かれたのは戦時中だが、いまだに現役だ。もう古典の地位を獲得したといってもいい。私が本書を読んだのは学生時代で、当時は「丸山眞男の限界」が語られることが多かったが、最近久しぶりに読み直して、その意外な新しさに感銘を受けた。

たしかに20代で書かれた論文は観念的で、文献学的には疑問もあるが、丸山が一生を通じて追究した「自然」と「作為」という問題が本書では鮮明に打ち出されている。ここでは国家を自然の秩序とする朱子学が伊藤仁斎や荻生徂徠によって解体されて本居宣長に至る江戸時代の思想史が描かれ、近代社会の本質を作為による自発的結社に求める丸山の思想が、ヘーゲルやウェーバーを踏まえて論じられている。

日本人が初めて「古層」を超える普遍的な理念と闘ったのが、江戸時代の儒学だった。そこではスコラ神学にも似た朱子学という壮大な観念の体系があり、「天」の秩序として皇帝の支配を肯定する政治哲学があった。平和によって暇になった武士や生活に余裕のできた商人は、これを「日本的」に換骨奪胎することで自前の思想体系を築いたのだ。

特に丸山が注目するのは徂徠で、彼を「日本のホッブズ」とみなすのが本書のポイントだ。徳川幕府の秩序が崩れ始めた時代に、彼は国家を自然法則にもとづく秩序として絶対化する朱子学を批判して、制度は「聖人」によってつくられた人為的なものだと主張し、幕府がそれを改革することを提言した。

彼の提言そのものは、貨幣経済を否定し、武士を領地に住まわせ、人口移動を制限して身分制度を厳格化する復古的なものだったが、ここでは国家秩序の安定化という目的が明確に意識され、その目的を達成するために幕府は(絶対君主のように)自由に制度を変えることができるとする。徂徠はゲマインシャフトの「有機体的思惟」である朱子学を否定し、機能的なゲゼルシャフトの論理を提示したのだ、というのが丸山の解釈である。

こうした朱子学の解体過程に丸山が対応させるのは、ドゥンス=スコトゥスやオッカムなどの中世哲学である。ここでは普遍=神が不可知の存在として棚上げされ、神の秩序は自然の中に求められる。神はカトリック教会から切り離され、個人が信仰によって神に直接従うとした宗教改革が近代の出発点だった。モダニティの起源を啓蒙思想ではなくスコラ哲学に求める丸山の解釈は、驚いたことに最近の研究と一致する。

しかし徳川幕府は、中国の皇帝とは違って「聖人」そのものにはなりえない。むしろスコラ哲学とのアナロジーでいえば、幕府はカトリック教会のような代理人であり、本来の絶対者としての天皇が天だとすれば、「天理」に反する幕府を倒して侵略の脅威から日本を守る儒教的な「革命」が正当化される、というのが尊王攘夷の論理だった。すべての秩序は人為的に変えることができるとした徂徠から吉田松陰までは、ほんの一歩である。

――と整理すると、わかりにくい(ほとんどの人が読んだこともない)江戸時代の思想が、オッカムからホッブズやルソーに至る西洋の思想史とパラレルに見えてくる。印象的なのは、丸山が福沢諭吉の思想をこうした「前近代」の思想との連続性の中でとらえていることだ。「天」の位置に天皇を置いたのが尊皇派だったとすれば、そこに「民権」を置いたのが福沢であり、自由民権運動だった。

最近の文献学では、本書は丸山の「近代主義」の図式を江戸時代に読み込んだ牽強付会な解釈とされているようだが、レヴィ=ストロースがいったように「人類の思考を知る上では、未開人の神話を私が語るのも、私の神話を未開人が語るのも同じことだ」とすれば、本書は丸山の神話を読み取る上ではもっとも重要な書物である。