「甘え」の構造 [増補普及版]『「日本史」の終わり」』でも論じたことだが、今回の原発をめぐる騒動には日本人の国民性がよくあらわれている。「脱原発」の運動というのはドイツなどでもあったが、事故を起こしてもいない原発をすべて止めた国はない。それによって発生する年間3兆円以上のコストを誰が負担するのかという議論もせず、何となく止めてしまう背景には「誰かが負担してくれる」という「甘え」があるのかもしれない。

本書は日本人論の古典として有名だが、著者が「甘え」という言葉を発想したのは、大学が紛争に巻き込まれて全共闘運動の学生と話しているときだったという。著者によれば現代は「父なき社会」であり、絶対的な権威のなくなった世界で「帝国主義」や「産学協同」などの仮想的な父親をつくり、自分をその被害者の側に置いて反抗するのが学生運動だという。今は「原子力村」や「御用学者」がその仮想敵だ。

父親は社会を管理する装置でもあるのだが、学生はそれを全面的に否定するわけではない。国家の保証する豊かさは享受しながら、「資本主義が人間を疎外している」とか「大学が独占資本に奉仕している」といった漠然たる不満を街頭の行動で発散させる。あくまでも父親に保護される子供の立場は捨てないのだ。この意味で、著者は現代を「子供の世紀」と呼ぶ。

おもしろいのは、暴力をふるっている学生に被害者意識が強いという指摘である。学生自身はブルジョアの子弟なのに、未組織労働者や被差別部落などのマイノリティに感情移入し、特権的存在としての学生を「自己否定」する。大学をやめるわけでもないのに被害者と気分的に一体化するのは、他人を「福島に住んでみろ」などとののしりながら東京でデモをしている反原発運動に通じる面がある。

特に全共闘と反原発運動が似ているのは、秩序を破壊したあとに何を建設するのかというイメージがないことだ。全共闘の場合、初期の三派全学連などには一応それぞれの党派の綱領があったが、最盛期の主流だったノンセクト・ラディカルはほとんどアナーキズムで、積極的な未来社会のプランはもっていなかった。反原発デモも「原発を動かすな」という後ろ向きのスローガンは一致しているが、それ以外はバラバラだ。原発を止めることによるコストは、父親が吸収してくれると思っているのだろう。

本書はこうした「甘え」をエディプス・コンプレックスといった精神分析の図式で解こうとするので話が古くさいのだが、広い意味で家族的な問題があるのは事実かも知れない。子供は自分の生活を自分で支える必要はなく、腹が減ったら反抗している親に甘えればいい。要するに、反抗する側とされる側に本物の緊張関係がなく、潜在意識では親に依存しているのだ。

こうした仮想の父親との「擬闘」は、彼らのストレス解消には役立っても現実を何も変えることはできない、と本書は指摘している。そして皮肉なことに、こうした精神的幼児のわがままによる「原発ゼロ」のコストを負担するのは、彼らの子供や孫の世代なのだ。