昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)きょうは満州事変の発端となった柳条湖事件から81年目である。一般には満州事変は軍中央の承認を得ないで関東軍が暴走したものとみられているが、本書はこの通説を否定する。その4年前の1927年に「一夕会」と呼ばれる陸軍将校の集会で「帝国自存のため、満蒙に完全なる政治的勢力を確立するを要す」という申し合わせが行なわれていたのだ。

1931年6月には「満蒙問題解決方針の大綱」が決定され、武力行使の方針が示唆されていた。これを決定したのは一夕会の中心だった永田鉄山軍事課長や東條英機編成動員課長であり、彼らは関東軍参謀の石原莞爾と連携していた。9月18日の柳条湖事件そのものは軍中央の事前の了解を得ていなかったが、陸軍省は翌日ただちに参謀本部との合同首脳会議を開き、即座に関東軍の出動を承認し、増派まで決定した。その後、若槻内閣も陸軍の方針を承認し、満州の占領はなし崩しに国策となった。

永田の構想の背景には、第1次大戦で戦争の様相が大きく変わり、軍事力だけではなくトータルな経済力の問われる総力戦になったとの認識があった。そのためには持久戦に耐える国家総動員体制を築くだけでなく、満州や華北・華中を含めた「自衛圏」を構築することを考えていた。このために重要なのは陸軍そのものが政治勢力となって政権を掌握することで、永田はクーデタを計画していた。

しかし永田は皇道派との派閥抗争の中で1935年、皇道派の青年将校に刺殺され、彼を中心とする「昭和陸軍」は中枢を失って迷走し始める。翌年には皇道派が二・二六事件を起こすが統制派によって鎮圧され、皇道派は軍中枢から追放された。しかし統制派の中心となった東條の求心力は永田とは比較にならず、その下の世代の急進派が陸軍の中で勢いを得て、日中戦争の泥沼に突入する。

本来の統制派の思想は、次の世界大戦に備えて軍事力を蓄積することだったが、石原が引き金を引いた「下克上」の風潮によって関東軍の暴走に歯止めがきかなくなった。参謀本部の武藤章作戦課長や田中新一軍事課長は、不拡大方針をとる石原作戦部長と対立し、「あなたが満州でやったことをわれわれは華北でやっているだけだ」と反論した。

永田の構想した軍事政権は、彼のような大きな戦略と強い指導力をもつリーダーがいて初めて成り立つものだった。そういう求心力を失うと、戦略だけは大きいが人望のない石原にも、人事は得意だが戦略のない東條にも、永田の代わりはつとまらなかった。そして日中戦争が始まると新聞は主戦論一色になり、その「空気」は石原にも東條にもコントロールできなくなった。

ここから日米開戦までは、ほとんど一直線だった。陸軍の中で開戦論を激しく唱えたのは武藤や田中だったが、彼らの構想は当初の永田の持久戦構想とは異なり、初期の海上決戦で米艦隊に決定的な打撃を与え、日独伊で包囲して戦意を喪失させるという主観主義的なものだった。彼らを先頭とする陸軍内の「空気」に押されて東條が開戦を決定した動機は「ここで引き下がっては大陸で失った20万の英霊に申し訳が立たない」というサンクコストの錯覚だった。

このように日本軍は最初から戦略のない戦いを考えていたのではなく、石原の独断や永田の暗殺や東條の優柔不断など、さまざまな要因が重なって日米開戦になだれ込んでいったのだ。今回の騒ぎが戦争に発展するとは思わないが、領土紛争というのは、ちょっとした行き違いやはずみで暴発することがしばしばある。今回むしろ心配なのは、デモ隊を「容認」している中国政府だ。彼らが暴動をコントロールできなくなって尖閣で衝突が起こると、不測の事態になる可能性もゼロとはいえない。

追記:本書は、今年の山本七平賞を受賞した。