モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか
坂本龍一氏の「たかが電気」という発言が大きな反響を呼んでいる。これは脱原発運動なるものが、電力インフラを維持している労働者に寄生しながらそういう仕事を軽蔑するフリーライダーの集団であることを象徴的に示しているからだろう。ただ乗りは個人的には合理的だが、社会にとっては脅威である。すべての個人が坂本氏のように他人の労働にただ乗りすると、集団は維持できない。

ダイエーの創業者、中内功は第2次大戦でレイテ島に従軍したが、日本軍は壊滅した。このとき「一番恐ろしかったのは、敵の銃弾ではなく隣に座っている日本の兵隊だった。眠ると隣の日本兵にいつ殺されるかと思って眠れない夜が何晩もあった」という(佐野眞一『カリスマ(下)』p.280)。レイテ島を舞台にした大岡昇平の名作『野火』にも、同僚を殺して食う兵士の話が出てくる。

現代でもこうなるのだから、日常的に飢えに直面していた旧石器時代の人類にとっては、他人を文字どおり食い物にするフリーライダーは最大の脅威だった。同じ集団の中で食い合うと集団は自滅するので、飢えても仲間は殺さないとか、獲物は必ず仲間に分配するといった感情的な歯止めが必要だ。それが平等主義的な道徳感情として遺伝子に埋め込まれた、というのが本書の主張である。

これはWilsonなどの主張する集団淘汰の理論であり、本書はそれを支持する人類学的な証拠をたくさん挙げている。こうした道徳感情を維持する上で重要なのは、だという。たとえば収穫した獲物を隠したことが仲間に発見されると、彼は村中から憎まれ、村八分にされる。キリスト教のの観念は、これを神に対する恥として抽象化したもので、ユダヤ教以外の文化圏にはほとんど見られない。

ただ乗りを防ぐ制度設計は公共経済学でもっとも重要なテーマだが、それは人々の感情に埋め込まれている。それが恥や憎悪であり、宗教である。左翼を支える国家権力や「原子力村」への憎悪も、こうした平等主義的な感情によるものだが、皮肉なことに実際の左翼は、坂本氏のようなフリーライダーになってしまった。彼に対する嫌悪の中にも、他人の労働に寄生する者を憎む道徳感情があるのだろう。