監獄の誕生―監視と処罰けさの記事で思い出して、久々に本書を読んだついでにメモ。原題は『監視と処罰』だが、日本では『監獄の誕生』と誤訳され、パノプティコンによる一望監視が国家権力による抑圧のメタファーと考えられてきた。しかし本書の中でパノプティコンを論じているのは10章のうち1章だけであり、それもベンサムの設計図にすぎない(実際には建設されていない)。フーコーはその後の講義では、一望監視による抑圧の図式を明確に否定している。

それより本書で注目すべきなのは、近代社会の基礎となっている個人の概念が軍隊の規律・訓練によって形成された人工物だという指摘である。その原型は修道院の独房にあり、これが兵営や監獄になり、学校の寮になった。ここでは個人を家族から切り離し、組織の目的に合わせて訓練することによって、能動的に判断して行動する<主体>に育て上げる。
長らくの間、なんらかの個人性は――下層社会のそれや一般大衆のそれは――記述の対象の水準以下にとどまってきた。[・・・]ところが規律・訓練のさまざまな方式は、こうした関係をあべこべにし、記述可能な個人性の水準を下へおろして、この個人性の記述を一つの取締手段、一つの支配方法に化すのである。(p.194)
個人を管理可能な対象として記録する技術が試験である。それは教育の手段としては意味がないが、個人を点数に変えて序列化し、軍隊や企業などの目的にどれだけ適しているかを示し、それを見て管理者は個人の配置を決める。個人はその固有の意味によってではなく、訓練にどれだけ従順かという数値で評価され、それに応じた地位や報酬を与えられる。
権力がいっそう匿名的でいっそう機能的になるにつれて、権力が行使される当の相手のほうは、いっそう明確に個人化される傾向をおびる。しかもその事態は、儀式によってよりも監視によってであり、<規格>を関連枠としてもつ比較の尺度によってであり、先祖が誰であるかを目印にする家系図によってではなく、<逸脱>のいかんによってなのだ。(p.195)
このように「自立した個人」は、17世紀以降に軍事的な目的と宗教的な手段で形成された特殊西洋的な概念であり、それ以前の社会にはほとんどみられない。非人格的な法の支配と警察による監視と処罰は民衆の管理を効率化し、所有権や契約の実行を監視するコストを下げて資本主義の重要なインフラとなったが、日本のようにこうした歴史をもたない社会では、合理的個人は今も違和感のある不自然な概念だ。

かつて小沢一郎氏が「自己責任」を掲げながら挫折し、小泉純一郎氏が「官から民へ」を一部は実現したものの、その後の政権で巻き戻されてしまったのも、個人主義をきらう「部族感情」の抵抗が最大の原因だろう。大阪で橋下徹氏の実現している改革も、全国レベルではきわめて困難だ。それは家族的な共同体をベースにした「江戸時代レジーム」を根底から否定する概念だからである。

フーコーも指摘したように、個人という概念は近代国家の作り出した幻想であり、自明の存在でもなければ望ましいという根拠もない。それは人々に強いストレスをもたらし、社会を不安定化するが、結果としては個人を交換可能な「モジュール」とした流動的な社会が史上に類をみない経済成長を実現した。

近代国家による抑圧を研究していたフーコーは、最終的にハイエクの自由主義にもっとも洗練された生政治を見出し、それが統治を自動化して「内政国家」の裁量を否定したことを高く評価して、権力についての著述をやめてしまう。互いに競争する「強い個人」を法で統治する自由主義は、今のところ最もましな統治形態だが、快適なシステムではない。教育の目的は、子供を競争に耐えられるように訓練することなのだ。