法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義 (日本比較法研究所翻訳叢書)原発の再稼働をめぐる混乱の原因は、石川和男氏も指摘するように、1年前に菅首相が浜岡を止める「超法規的要請」を行ない、その後も法的根拠のないストレステストの合格を再稼働の条件にしたことだ。経産相が定期検査に合格したと判断すれば電力会社は運転できるが、超法規的措置を発動したため、何を基準に再稼働してよいかわからなくなった。「国民のコンセンサス」って具体的に何で見るのか。コンセンサスができるまで、原発はずっと止めるのか。

このように法律を「杓子定規な規則」と考え、賢明な官僚や慈悲深い政治家が愚かな民を指導すべきだと考える「水戸黄門」的な発想は、日本にはいまだに根強い。それは、ある意味では自然だ。人間を法律が支配するという法の支配は、西洋の特殊な法思想だからである。本書は、このような思想がどのようにでき、近代社会を動かしたかを法制史の権威が書いたものだ。

フクヤマもいうように、秦は最初の「近代国家」ともいうべき特徴をそなえていたが、法の支配を欠いていた。法は皇帝が民衆に命令するためのものだから、その正統性は皇帝の権力で担保され、法に民衆を従わせる韓非子などの思想が「法治主義」と呼ばれた。しかしこのようにあからさまな暴力による支配は、秦の始皇帝が死去すると崩壊した。それは皇帝を支える精神的な権威がなかったからだ。

他方、西洋では12世紀以降、教会法で全欧的な精神的価値の統合が実現し、世俗的な権力はその後に各国のローカルな政権として生まれた。このため、法は「神の法」として普遍的な価値をもち、各国の世俗的権力より上位とされた。それはキリスト教の強い求心力がもたらした偶然だったが、結果的にはこれによって西洋の主権国家は、司法に正統性の根拠を求め、秩序を維持することができた。司法は神の代理人として究極の決定者になり、強い権威をもった。裁判官の奇妙な服装は、聖職者のコスチュームなのだ。

こうした伝統のない日本で、法の支配が理解されるのはむずかしい。それが絶対の理想でもないが、歴史的な経験からいえるのは、法の支配が徹底している英米圏のほうが大陸法圏より有意に成長率が高いということだ。それは政治の経済活動への介入が少なく、行政の予見可能性が高いからだ。裁量行政は短期的にはいいように見えても、長期的には経済を混乱させ、腐敗をまねく。

だから遠回りのように見えても、原子力規制庁が安全基準を見直し、法にもとづいて規制を行なうことが早道だ。それまでは現在の法律に従って定期検査の終わった原発は再稼働し、時間をかけて考えればよい。裁量的な行政指導は緊急避難としてはありうるが、緊急の地震・津波対策はもう終わったのだから、いつまでも「有事」の体制を続けるべきではない。

ただし訳本は上下2巻で17000円と高価で、訳文もよくないようだ(私は訳本は読んでない)。