私はスポーツに興味がないので、多くの人がなぜボールを投げることにあれほど熱中するのかよくわからなかったのだが、先日フクヤマの本で生物学のスパンドレルという概念を知って謎が解けた。

これは進化が単純な自然淘汰で進むという適応主義の理論に対して、生物のすべての形質が環境に適応しているわけではないというスティーヴン・グールドの理論だ。

スパンドレルとは図のように建築のアーチを支える構造物で、それ自体は力学的な必要があるのだが、そこに空間ができると彫刻などの装飾が施され、それは時とともに複雑化する。このように生物の機能も最初は合理的にできるが、いったんできると適応とは無関係に発達する過剰適応が生じるというのがスパンドレル理論である。
この理論で考えると、人々が球技を好む理由は明らかだ。それは物を投げて敵を殺すための感情である。最近の生物学や考古学が明らかにしたように、人類は歴史の99%以上において飢えに直面し、敵を(動物だけでなく人間も)殺して食う生活を続けてきた。石器はこの絶え間ない戦いで勝ち抜くための武器であり、特に遠くにいる敵を石を投げて殺す技術は貴重である。その技術をみがくために球技ができ、それを好む感情が世界共通に植え付けられていることは合理的に理解できる。

網野善彦が研究した飛礫の意味も、こう考えるとよくわかる。飛礫は殺人技術であり、その闘争本能を解放する石投げ遊びは、人類がノマドだった狩猟採集社会の記憶を反芻しているのだ。逆にいうと、球技が世界共通に人々を熱狂させることは、かつて人類が飛礫で激しく殺し合っていたことを間接的に証明している。

ウェイドもいうように、言語や音楽の起源も戦争のために仲間を確認する暗号のようなものと考えられるが、そのための知覚が発達すると本来の目的以外の表現や娯楽に使われるようになる。人々がゲームを好むのも同じだろう。将棋やチェスは、その起源が戦争にあることを明らかに示している。それが世界のどこでも好まれるということは、この感情が文化圏に依存しない遺伝的なものであることを示している。

このように闘争本能には、かつては適応上の価値があったが、それはこの感情に従った結果の合理性を保証するものではない。闘争本能は紛争をもたらし、敵対感情はその解決を困難にする。しかし人々を動かすのは論理的な合理性ではなく感情だから、それを利用することが政治的には重要だ。「怠け者の公務員」や「原子力村」などのスケープゴートを叩くことによって民衆の支持を得る橋下徹氏は、その技術を身につけている。経済学者に足りないのは、こうしたマーケティングである。

追記:スポーツファンの反発が予想されるのであらかじめ言っておくと、球技を好む感情の目的が殺害だからといって、その目的が自覚されるとは限らない。恋愛感情の目的は子孫を殖やすことだが、恋人たちはそれを意識していない。