意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)アマゾンで、ショーペンハウアーの『幸福について』がベストセラーの第1位になっていて驚いた。テレビ番組で紹介されたのがきっかけらしいが、この人生論を読んでもショーペンハウアーはわからない。彼の主著は本書で、ペーパーバックでも出ている。

近代の初めから人々を悩ませてきたのは、死の恐怖だった。それは人々が共同体から離れて個人として生きる近代社会の宿痾ともいうべきもので、モンテーニュもパスカルもこれを論理的に解決できなかった。ショーペンハウアーは、本書でそれを解決する「賢者の石」を見出したと書いている。

彼が世界の根本的な実在だと考える意志は、カントの「物自体」に似た普遍的存在だが、合理的に認識される客観的対象ではなく、それ自体が世界を動かすエネルギーである。意志は客観的な表象として現われるが、これはカントのいうように個人の意識によって構成されるものではなく、絶対的な主観としての意志が生み出すものだ。

この意志は、世界の最初から続く目的も意味もない盲目的な実在である。個人は表象の一つだが、意志のみが本質で表象はすべて幻想なので、生に意味はない。生は意志の長い歴史の中で、ほんの一瞬この世に現われる閃光のようなものだから、個人は死ぬことによって本質的な意志の世界に帰る。したがって死の恐怖は錯覚であり、自殺は意志を肯定する積極的な行為である。

意志には目的がないので、生は無意味な苦しみの連続である。神に救いを求めるのは、その苦しみを一時的に忘れるための自己欺瞞であり、宗教は自分の生に根拠がないという不安を忘れるための儀式に過ぎない。救いはキリスト教のような偽善的な価値を信じることではなく、仏教のように現世が苦であることを悟り、禁欲と苦行を通じて心の平安を得ることだ。

・・・というペシミズムを語る彼は、自殺したわけでもなければ世捨て人になったわけでもなく、ベルリン大学でヘーゲルと正教授の座を争って敗れ、酒と女に溺れる俗物だった。壮大な体系をつくったヘーゲルは世界に大きな影響を与えたが、それを否定しただけのショーペンハウエルは忘れられてしまった。しかし彼は、ニーチェやハイデガーからポストモダンに至る非合理主義の元祖である。

個体を超えて増殖を続ける意志というイメージは、社会生物学でいう「利己的な遺伝子」に似ている。個体としてのあなたが死んでも、その遺伝子は子供に受け継がれて生き続けるので、死というのは相対的な概念だ(バクテリアには自然死はない)。人類が滅んでも、生命の意志としてのDNAは地球上に遍在して増殖を続ける。それが人間という表象をもつか、バクテリアという表象をもつかは大した問題ではない。

ショーペンハウアーには、現代的な意味もある。人々が共有する価値を失い、自分以外に依拠するものをもたない時代に、何に生の根拠を求めるかという思考実験として、彼の思想は今でもおもしろい。もともと人生に意味を求めず、ニーチェを処世訓として楽しむ「天然ニヒリスト」の日本人に向いているかも知れない。特に「死は本質への回帰である」という悟りによって死の恐怖を克服する彼の思想は、高齢化社会に似合うだろう。