千のプラトー 合本版 資本主義と分裂症 (河出文庫)
ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』では資本主義を欲望機械で説明したが、本書では国家を戦争機械で説明した。といっても、それは国家が戦争のための機械だという意味ではない。逆に人類の歴史は戦争の連続であり、それを抑止する装置として国家が生まれたのだ。
もはや国家が、発展した農業共同体や、発達した生産力を前提とするのではない。反対に、前提とされる農業も冶金業ももたない狩猟採集民の只中に、国家は何の介在もなく直接的に樹立される。[・・・]国家が一定の生産様式を前提とするのではなく、逆に国家が生産を一つの「様式」にするのだ。
これはヘーゲル以来の「市民社会が国家を生み出す」という弁証法の否定であり、マルクスの土台と上部構造の関係を逆転するものだ。これは同時代にフーコーが考えていた生権力の概念とも通底するものだったが、彼らの死によって継承されないまま終わった。

しかし最近の実証研究は、彼らの直観を裏づけている。ドゥルーズ=ガタリの引用したクラストルの『国家に抗する社会』が述べたように、人類の歴史の99.5%を占める狩猟採集社会において人々は戦争を繰り返し、殺し合いを続けてきたのだ。

ボウルズ=ギンタスのような経済学者も、ダグラス・ノースのような歴史学者も、このような暴力史観ともいうべき発想で新しい社会科学を構想している。

人間の遺伝子の中には暴力を求めるアナーキーな欲望と、それを抑止して秩序を求める集団意識が共存しており、それは弁証法的に統一されることなく葛藤を続けてきた。

この葛藤は文化的レベルでも受け継がれ、戦争による解放を求める民衆と、それを弾圧する国家権力という形で拡大再生産されてきた。現代の国家は、暴力装置を独占してかつてなく強固な秩序を実現したが、それは同時に転覆できない永遠のアンシャン・レジームになってしまった。

こうした閉塞感から脱却する概念としてドゥルーズ=ガタリが提唱したのが、ツリー状の国家から逸脱する不定形のリゾームである。これは今ネグリなどが模索している近代国家をマルチチュードに溶解させる運動とも共通点があるが、ツリー状の国家が完成した欧米では運動として成り立たない。

しかし日本人の中心のない集団主義は国家に抗するリゾームであり、それが現代社会に生きている日本では、もしかすると近代国家を根底から否定する変革の可能性があるのかも知れない。

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