福田恆存 思想の<かたち> ― イロニー・演戯・言葉今週のメルマガのテーマは「丸山眞男を読む」。戦後の「革新陣営」の教祖だった丸山を「保守」の立場から批判したのが福田恆存だった。60年安保の強行採決について「民主主義の危機」と批判する丸山を「国会で審議が終わったら採決するのは当たり前」と突き放し、非武装中立を主張する丸山に「武力なしで平和を保つことはできないという常識に還れ」と語る福田の言葉は、いま読むと当たり前だが、当時は保守反動とされて孤独だった。

福田の丸山批判は、そういう政治的な面にとどまらない。個人の自立による社会の進歩を信じる丸山に対して、福田はバーク的な懐疑主義を対置し、「個体というのは関係のうちにあり、関係によって保たれている部分に過ぎない」という。今風にいえばリベラル/コミュニタリアンのような論争は、その後の高度成長の中で深められないまま消えてしまった。

福田が個人の代わりに信じたのは言葉だった。それもソシュール的な近代言語学とは違う時枝誠記の「言語過程説」に依拠し、言葉を論理的な文法体系ではなく人間の生活と一体のものと考え、この立場から彼は国語改革に反対し続けた。これも手書き文字のほとんどなくなった今となっては、戦後の国語改革はほとんど無意味なものだった。文化そのものである言語を法律によって変えようというのは、バークやハイエクの批判した設計主義である。

福田は「歴史意識の『古層』」に代表される後期の丸山の問題意識を知らなかったようだが、彼の丸山(に代表される進歩的知識人)批判は、そのレベルに達している。日本の伝統は、丸山の考えるように外在的な秩序として人々を抑圧するものではなく、日常生活から紡ぎ出される言葉によって支えられているのであり、それを政治的な「改革」によって変えようという試みは挫折せざるをえない――という福田の批判は現実には勝利した。

論壇の勝者だった丸山は政治においては敗者であり、高度成長期には反時代的だった福田が、今となっては勝者である。しかし常識になった保守主義は批評性を失い、現状追認になってしまう。かつて丸山と福田が論じたような深さにおいて現在の日本の行き詰まりを問う論客も「論壇」もなくなった今、われわれにできるのは彼らを読み直すことぐらいだろう。