啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)今年を振り返ってみると、震災は日本が「失われた20年」の停滞期から次の衰退期に移行する時期を象徴する出来事だった。中でも原発事故のあとに出てきたなんちゃって文明論は、日本の「思想家」の劣化を示す点で興味深い。

「原子力は人間のコントロールできない凶悪なエネルギーだ」とか「原発事故は大量消費に依存する近代文明の災害だ」とかいう類の話は、本書が第2次大戦を総括して行なった啓蒙批判の焼き直しである。啓蒙的な合理主義は、神話のように世界の意味を説明するのではなく、テクノロジーによって自然を改造し、支配する。そこで重要なのは自然の恐怖から逃れることではなく、それを操作するための有用な知識である。

しかし本書の著者が見たのは、こうした啓蒙的な理性の極北において、それを否定するファシズムが大衆的な支持を得て、理性の生んだ大量破壊兵器を使って史上最大規模の殺戮が行なわれたというパラドックスである。彼らはこう書く:
自然に対する恐怖心は、アニミズム的なたんなる迷信へと格下げされてしまい、人間の内なる自然と外なる自然の支配こそが絶対的な生の目的とされた。ついに自己保存が自動化されるに及んで、生産の管理者としての理性の遺産を相続したものの、相続権を剥奪された者をはばかって、今や理性に恐れを抱くようになった者たちの手によって、理性は解任される仕儀に立ち至る
啓蒙は世界を「脱神話化」することによってその意味を剥奪し、爆発的な富の増大を実現したが、それはかえって人々の意味への渇望を生み出し、啓蒙を清算して科学を否定しようとする大衆運動を生み出す。いま起こっている反原発運動がファシズムと共通するのは、科学的データを「御用学者」と否定して「正義か悪か」を判断基準にしようとする呪術的思考である。

本書も指摘するように、啓蒙は西洋文化圏にのみ生まれた特殊な思想であり、呪術のほうが人類の普遍的な思考様式である。そこでは世界は神話によって説明され、自然の動きはその意味で説明される。アリストテレスの自然学でも、重い物体が落ちるのはそれが「本来の場所」に戻るためであり、したがって重い物ほど速く落ちることになっていた。

しかし現実の物体が落下する速度は重さによって変わらず、時間とともに増す。それを最初に実験で発見したのは、ガリレオではなく中世の神学者だった。近代科学はキリスト教会と闘って生まれたと思われているが、実証主義を生んだのはキリスト教神学の合理主義だったのである。啓蒙はそのコロラリーに過ぎない。

今われわれが直面しているのは、産業革命以来ずっと続いてきた啓蒙による自然の支配の結末であり、それは原子力で初めて起こった出来事ではない。原発が「人類のコントロールできない技術だ」と糾弾する柄谷行人氏は、石炭火力が原発の数百倍の人命を奪っていることを知っているだろうか。エネルギー技術は、エントロピーを増大させて世界を汚染する「近代社会の原罪」だが、もう罪のない楽園に戻ることはできないのだ。

啓蒙によって技術は人間のコントロールを離れ、人々に理解できない新たな呪術になった。価値観の呪縛を離れて科学者の世界で自動化することによって、科学=技術は急速な発展を遂げたが、それは「部族社会」を崩壊させて意味喪失をまねき、技術の暴走によって戦争が起こる。核兵器はその手段にすぎず、使いやすい通常兵器のほうがはるかに多くの人命を奪っている。

だから問われているのは、原子力か「自然エネルギー」かなどという技術の問題ではなく、自然から意味を奪って支配してきた啓蒙の原理である。それは資本主義の発達と不可分であり、自然でも愉快でもないが、大きな富を実現してきた。それを捨てて部族社会に「再埋め込み化」しようという試みは、世界のどこでも成功したことがない。アドルノがハイデガーを批判して述べたように、帰るべき故郷は実はどこにもないからである。