福沢諭吉の哲学―他六篇 (岩波文庫)きのうのBLOGOS AWARDで「話題賞」に選ばれた田中龍作氏が「NHKの番組で山下俊一氏が『微量放射線は心配ない』といっているのに怒りを感じてブログを始めた」というのを聞いて、私は福沢諭吉の惑溺という言葉を思い出した。

これは丸山眞男が福沢を理解するキーワードとしている概念だが、一般にはあまり理解されていない。惑溺という漢語も一般にはあまり使われないし、西周はこれをsuperstitionの訳語として使ったので、単なる「封建的な因習」といったものと理解されることが多いが、福沢はもっと複雑な意味をもたせている。
支那日本等に於ては君臣の倫を以て人の天性と称し、人に君臣の倫あるは猶夫婦親子の倫あるが如く、君臣の分は人の生前に先づ定たるもののやうに思込み、孔子の如きも此惑溺を脱すること能わず。(『文明論之概略』)
つまり現在の社会秩序がアプリオリに正しいと信じ、その「空気」に同調することが倫理的に正しいと思い込むことを惑溺と呼んでいる。さらに重要なのは、「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて後に物を生ずるに非ず」という指摘である。これは山本七平の「日本的思考は常に『可能か・不可能か』の探究と『是か・非か』という議論とが、区別できなくなる」という指摘に通じる。

福沢が儒教を否定したのは、このように倫理と物理が分離されず、倫理的に正しいことは物理的にも正しいとしているからだ。田中氏も宮台真司氏も武田邦彦氏も「原子力は悪いエネルギーなのだから、微量放射線で人が死ぬはずだ」と思い込み、それに科学的根拠がないという科学者を「御用学者」と攻撃する。そして科学者の論文を読む人はほとんどいないが、こうした惑溺に同調する人々はネット上に大量に出現する。

福沢が「実学」を主張したのも、単に実用的な学問を大事にするということではない。実用的な知識を尊重し、空理空論を排するのは、むしろ儒教(宋学)の特徴である。しかしそこでは、知識の根底にあるのは「天理」すなわち現在の秩序であり、それを守るために学問が動員される。これは西洋のキリスト教神学とも同じで、もともと学問というのは現状を正当化して社会秩序を安定させるために生まれたものである。

しかし近代の科学技術は、これとはまったく異なる方法論を生み出した。それは物理を倫理から切り離し、両者が一致しない場合は後者を棄却するという実験の方法である。福沢が学問のモデルとしたニュートン物理学では、世界がこうあるべきという倫理とは無関係に、どうであるかという事実だけが問題になる。丸山はこれを(通説的に)デカルト以降の近代的自我の産物と考えているが、最近の研究では、実験は「神の意志を確かめる方法」としてキリスト教神学の中から生まれてきたものとされている。

福沢の信条とした独立自尊は単なる個人主義ではなく、こうした惑溺を否定する実証主義である。それは世の中の空気でこうなっているからと考えるのではなく、実験や調査によって実証された事実から出発して考える態度だ。彼自身もこうした方法論は「甚だ殺風景なもの」というが、それは日本が独立するためには必要だと考えていた。

彼のいう独立とは、第一義的には日本を日本人が統治する(西洋に侵略されない)ことであり、そのためには彼が「敵」と考えていた西洋の知識を取り入れて国力を高める必要があった。われわれが同じような「開国」に直面する今、必要なのも、惑溺を排して自分の頭で考えることだろう。