正統の憲法 バークの哲学 (中公叢書)きのうの選挙を受けて「大阪都」の問題が盛り上がっているが、「地域主権」などというナンセンスな公約をかかげる民主党政権には、この問題は受け止められないだろう。近代国家の「国のかたち」を考える上で、合衆国憲法は重要な素材である。

一般には、アメリカの独立革命はルソーにつながるフランス革命の「人権宣言」や「民主主義」の延長上にあると思われているが、独立革命を支援したバークがフランス革命を強く批判したように、両者は別の思想にもとづいている。人権宣言が人類に等しく与えられた「天賦の権利」を根拠とするのに対して、最初の合衆国憲法には「人権」も「平等」も出てこない(平等は修正第14条で入った)。
独立当時のアメリカの状況は、現在の欧州に似ている。13の国(state)が本国から独立したものの、バラバラの法律をもち、州際の取引には関税をかけていた。これを連邦国家としてまとめ、中央政府を設けて経済圏を統一しようというのが合衆国憲法の発想である。これに対して各国は直接民主主義と独立性を求めて抵抗したが、建国の父は『ザ・フェデラリスト』でこのように説得する:
およそ人民に直接訴えるということは、本来政治機構そのものに一定の欠陥があることを意味しているものと思われるので、人民に頻繁に訴えるということは、元来、時間とともにはぐくまれる尊敬、それなくしてはおそらくどんな賢明かつ自由な政府といえども必要な安定性を保有しえなくなる国民の尊敬を政府が失うことになろう。(第49編)
本書も指摘するように、合衆国憲法はバーク的な保守主義にもとづいて民主主義を抑制するための制度である。そこでは上院議員は州議会が選出し、大統領も国民が直接選べないで「選挙人」を選ぶ。民主主義が暴走して、フランス革命のような衆愚政治になることを恐れたからである。連邦派と各国の妥協の結果、知事は「統治者」(governor)なのに、連邦政府の元首は会議の「まとめ役」(president)という名称になり、その法的な権限は実際にはほとんどない。

合衆国憲法には「国民主権」という思想もない。国家の究極の決定は非人格的な法の支配によって行なわれるからだ。アーレントが『革命について』で指摘したように、「政治における最大のアメリカ的革新は、共和国において主権を徹底的に廃止したこと」である。そこで国家の統合の根拠となるのは抽象的な「人権」ではなく、伝統的な慣習で形成されたコモンローであり、議会も民主主義も近代国家にとっては不可欠の要件ではない。

このアメリカ建国の状況は、欧州の財政危機を克服するために財政政策の統合が検討されている現状をみるとおもしろい。建国の父が洞察していたように、通貨が同じなのに各国で法律や税金が別々になっていると経済が破綻するので、通貨を別にするか税制を統合するかのどちらかが必要である。アメリカは激しい論争をへて後者の道を選んだが、いまだに前者の道を主張するanti-federalistの伝統も強く、それがレーガン政権のような「大きな変化」の原動力になってきた。

日本の直面している問題は、これとは異質である。そこで民主主義と呼ばれているのは村社会の全員一致の原則なので、独裁者はあらわれない。強いリーダーは足元をすくわれ、意見のわかれる問題は先送りされる衆愚政治が果てしなく続く。日本は主権を徹底的に否定したニヒリズムの社会なのである。そこに必要なのは「参加民主主義」ではなく、民主主義を抑制して一貫した決定を行なうルソーの「立法者」だろう。