日弁連は民主党と同じく、大学紛争で就職できなかったドロップアウトが生き延びた「政治的ガラパゴス」である。そのホームページはほとんど左翼のアジビラだが、きのうの会長声明には考えさせられる。彼らは内閣官房の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」を批判しているのだが、その対象は議論の内容ではなく人選であり、その根拠は科学ではなく法律である。
本件WGの構成員には、広島・長崎の原爆被爆者の健康影響の調査研究に携わる研究者が多く、低線量被ばくの健康影響について、これに否定的な見解に立つ者が多数を占めている。しかし、原爆症の認定をめぐっては、これらの研究者らが関与して策定された審査方針に基づく判断を覆した裁判例も少なくない。[・・・]本件WGの人選は、顧問会議の座長が一方的に指名できることになっており、本件WGの会合もマスコミ関係者を除き、一般市民は傍聴もできず(第2回からインターネット中継はされている。)、議事録も公表されていない(11月24日現在)。
インターネット中継されているのに「一般市民は傍聴もできず」という批判も理解に苦しむが、最大の問題は科学的な議論を判決によって否定しようとする論理である。日弁連にとっては「低線量被ばくの健康影響に否定的な見解に立つ者」は原子力産業の御用学者なのだろうが、あいにく世界の科学者の圧倒的多数はそういう見解なのだ。

たとえば学会誌に掲載された最近の代表的なサーベイ論文の検討している167本の論文のうち、LNT仮説を肯定しているのは2本しかない。その1本が日弁連や小出裕章氏のお好きなBEIR VII報告書だが、これは規制当局の意向を反映して既存の基準を擁護するもので、前述のサーベイも「根拠が示されていない」と強く批判している。

科学者の意見と裁判の判決が違うとき、どちらに合わせるべきだろうか? 裁判官が世界の学界より高い見識をもっていることは考えにくいので、間違っているのは判決のほうだと考えるのが普通だろう。武田邦彦氏のように「科学と法律が食い違うときは法律が正しい」と主張するデマゴーグもいるが、それなら科学者はいらない。彼らは、ガリレオを有罪とした異端審問は正しかったというのだろうか。

低線量被曝について科学的な論争があることは事実だが、それに決着をつけるのは科学であって法律ではない。現在のIAEAの放射線基準は過剰に安全マージンを設定しており、それを今後の復旧事業に適用すると、数兆円のコストが賠償や除染に浪費される。それは賠償でもうけようとしている日弁連にとってはビジネスチャンスなのだろうが、その負担は最終的に納税者に回ってくるのだ。