クルーグマンの国際経済学 上 貿易編TPPをめぐる自称エコノミストの初歩的な間違いは目に余る。特に中野剛志氏浜矩子氏などがいう「安い輸入品が入ってきたらデフレになる」という話は、物価水準と交易条件(輸出財/輸入財の相対価格)を取り違えたものだ。

本書も説明するように、交易条件が改善する(輸入財の相対価格が下がる)ことによって実質所得は上がる。中国で700円でジーンズをつくれるとき、日本で7000円でつくる意味はない。中国に比較優位があるものは輸入すれば、あなたの実質所得は10倍になるのだ。

彼らのもう一つの誤りは、生産者の話ばかりして消費者の利益を考えていないことだ。貿易自由化で国内の生産者の利益は減るが、彼らの損失よりも消費者の利益のほうが大きいことは簡単な計算で確かめられる。関税によって過少消費が起こるため、生産者も損をするのだ。

しかし自由化の利益は多くの消費者に薄く行き渡るが、その被害は少数の生産者に集中するため、自由化は政治的には困難だ。たとえばアメリカでは、砂糖の輸入制限で消費者は年間15億ドル損をしているが、これは1人年間6ドルなので、消費者には自由化を進めるインセンティブがない。これに対して生産者の利益は1人数万ドルなので、彼らは政治的なレント・シーキングで自由化を阻止するインセンティブをもつ。

さらにこの問題は、世界的にみると囚人のジレンマになっている。他国が関税をかければ自国もかけないと損をし、他国が市場開放すれば自国だけ関税をかけて輸出を増やせるので、双方とも関税を上げることがナッシュ均衡になるからだ。しかし保護主義で世界経済が縮小すると双方とも損をする、というのが1930年代の教訓である。この結果、戦後は自由貿易を進めるGATTやWTOができた。

ローカルな生産者の損失を経済全体への打撃と称する人々の話のほとんどは嘘だが、所得再分配が起こることは事実である。特に今後、TPPがアジア全域に拡大すると、経産省のいうように日本の輸出が拡大する効果よりアジアからの輸入が拡大する効果のほうが大きいだろう。これによって日本の製造業の実質賃金が下がる可能性があるが、このような要素価格の均等化は、どこまで進むだろうか。

理論的には、世界中で同一労働の賃金が同一になるまで進む。労働移動がなくても、低賃金労働の製品を輸入することによって労働を輸入するのと同じ効果があるからだ。今までは、これは理論上の話だったが、1990年代以降、旧社会主義国と新興国が自由主義経済圏に入って現実のものとなった。今後は直接投資が増え、サービスのグローバル化が進み、さらに移民も増えるだろう。

このような生産要素の移動は政治的な紛争の原因となるが、日本だけがそれを拒否することはできない。それは「グローバリズム」という主義主張ではなく、「グローバリゼーション」という現実なのだ。自由貿易はすべての当事国を豊かにするが、すべての人を豊かにするわけではない。経済統合の利益を最大化しながら、その社会的コストを最小化することが政府の仕事である。