日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)ユダヤ教やキリスト教というのは、日本人にとってわかりにくい世界である。2人の社会学者がそれを論じた『ふしぎなキリスト教』は、日本人のキリスト教理解のレベルの低さをよく示している。アマゾンの書評欄で多くのキリスト教徒が怒りのレビューを書いているが、こういうでたらめな本が売れるのもよくないので、ちょうど40年前に出版された本書を紹介しておこう。

本書はイザヤ・ベンダサンというユダヤ人が書いたことになっているが、今ではよく知られているように著者は山本七平である。これは一時的なお遊びだった(ペンネームも品のよくない駄洒落)と思われるが、300万部を超えるベストセラーになって引っ込みがつかなくなったのか、その後も山本はベンダサン名義を使いわけた。本多勝一との「百人斬り」論争は、内容的には戦地を知っている山本の勝ちだったが、匿名で批判を続けたのはフェアではない。
本書については多くの批判があり、そのキリスト教理解には怪しい部分もあるようだが、数十年ぶりに読み返してみて、以前とは違う部分が印象に残った。
日本人を、ユーラシア大陸から少し離れた箱庭のような別荘で何の苦労もなく育った青年と見るなら、ユダヤ人は、ユーラシアとアフリカをつなぐハイウェイに、裸のままほうり出された子供である。日本人は戦争を知らない、いや少なくとも自国が戦争になった経験はない、と言えば、多くの日本人は反論するだろう。だがその反論自体が、日本人の、たぐいまれな恵まれた環境を物語っているにすぎない。(p.61)
これ自体は、それほど独自の見解ともいえない。日本が非西洋で唯一、自力で近代化をとげた最大の原因が、海に隔てられて平和だったからだ、というのは、梅棹忠夫なども論じた古典的な日本人論で、今日ではほぼ通説といってもいいだろう。山本の独自性は、これを彼が経験した軍の非人間性と結びつけ、戦争を知らない日本人が慣れない戦争をやるといかに残虐で間抜けな戦いをするかを明らかにしたことだ。

山本も指摘するように、「同じ人間だから」という信仰にもとづく「日本教」は、平時にはきわめて効率がよい。不利な気候条件で稲作をやるために厳密にスケジュールを組んで全員一致で農作業を行なう「キャンペーン型稲作」は、勤勉革命と呼ばれる労働集約的な農業を生み出し、これが近代以降の工業化の基礎になった。

しかし長期的関係に依存する日本教は、戦時のように社会のフレームが大きく変わるときは、弱点を露呈する。敵に勝つことを至上目的にしなければならない軍隊の中で、勝敗よりも組織内の人間関係が重視され、面子や前例主義がはびこり、組織が組織の存続のために「自転」するのだ(『一下級将校の見た帝国陸軍』)。

もちろん、軍隊が自転していると戦争に負ける。だから近代国家では、指導者に求められる第一の資質は戦争を指揮する力であり、敵に勝つために一時の感情に流されないで長期的な戦略を考え、時には撤退する判断力だ。ところが日本の組織では、指揮官が「空気」にこだわって退却せず、「同じ人間」である兵士を全員生かそうと無理な戦いを続けて全滅する。

こういうとき大きな発言力をもつのが、客観情勢を無視して「空気」に依拠して強硬な方針主張する将校だ。辻政信はノモンハン事件や「バターン死の行進」をもたらし、ガダルカナルでも補給を無視した作戦で2万人以上を餓死させた。牟田口廉也も、無謀なインパール作戦で3万人余りを餓死させた。「数十兆円のコストをかけてもすべて除染しろ」と主張する児玉龍彦氏や朝日新聞は、さしずめ現代の辻政信というところだろうか。

本書で日本人と対照しているユダヤ人は西洋人=普遍性のモデルで、オリエンタリズム的なバイアスをまぬがれていない。そこは著者も意識していて、ユダヤ人の特殊性を強調する。パレスチナは4000年前からつねに戦場であり、遊牧民は毎年「農民を襲って収穫と家畜のすべてを奪い、抵抗できない者は殺し、動ける者は奴隷として連れ去る」(p.62)。

西洋の主権国家は、このような継続的な殺し合いの中で生き残った都市国家の集合体であり、ユダヤ人は敗者だった。彼らには自分を守ってくれる城壁はないので、個人が金や才能の力で自分を守るしかなかった。これに対して日本人は、「平和な別荘でおかいこぐるみで育てられ、秀才だが世の荒波を知らない」。民族が死ぬか生きるかの決断を迫られたことがないので、「和」を重視して際限なく問題を先送りするのだ。