福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと原発事故をめぐって出てきた「現代思想」もどきの議論は、日本の「論壇」の衰退を露呈していて興味深い。「原発とともに資本主義を廃絶しよう」とアジテーションする柄谷行人氏、「すべての原発の即時停止と廃炉」を求める内田樹氏、「原子力も火力もやめて光合成で生きよう」という中沢新一氏、原発問題は「子供を取るかエアコンを取るか」の選択だという大澤真幸氏などは、漫談としてはおもしろい。

その中では、本書は『一六世紀文化革命』の著者、山本義隆氏が、科学技術史の観点から原子力をどうみるのか興味があったので読んでみたが、残念ながら「読んではいけない」本になってしまった(画像にリンクは張ってない)。学術書の慎重な語り口とは違い、「原子力村の独善性」を糾弾し、電力会社の説明を「正気で書いているのか」と罵倒する記述は、かつての全共闘を思わせる。

著者も指摘するように、近代の科学技術は自然哲学(エピステーメー)と職人の技術(テクネー)が西洋近代で初めて結合されてできたものだ。そして科学技術は資本主義のエンジンとなって巨大化し、科学技術の国家管理が進んだ。これは資本主義が国家と結びついて帝国主義になる過程とパラレルで、その帰結が二度の世界大戦だった。原爆を開発したマンハッタン計画を進めたのは、ニューディールを進めた官僚だった。

原子力は、物理学の理論が生み出した初めてのエネルギーだった。それは歴史の中で人間が経験を積むことなく、それまでの武器とは桁違いのエネルギーを実現し、核戦争によって人類を絶滅させる可能性をもつようになった。しかしそれは著者のいうように「人類のコントロールを離れる」ことなく、20世紀後半は近代ではもっとも平和な時代になった。結果的には「核の均衡」が平和を守ったのだ。

だが冷戦の終結によって国家主導の時代が終わり、経済も科学も自律分散化の時代になった。経済運営では自由主義の影響が強まり、ITの世界では分散型のインターネットが国家主導の電話網を圧倒した。原子力は、いわば国家資本主義のテクノロジーであり、それが電話のように劣った技術なら捨てるべきだろう。

しかしSmilも指摘するように、こういう「ソフトエネルギー」論は30年以上前からあるが、いまだに再生可能エネルギーは補助金なしでは自立できず、原子力に対抗できる技術になる見通しもない。それはインターネットのような破壊的イノベーションではないのだ。ITとは違って、エネルギー産業には規模の経済が大きいため、太陽電池でさえ集中型の発電所のほうが効率が高い。

原子力は技術的な効率は高いが、政治的なリスクが大きいので、エネルギーの国家統制をやめて電力を自由化すれば原発は減ってゆくだろう。しかし本書のいうように「右肩上がりの成長経済」を捨てる必要はなく、天然ガスやクリーンコールで成長は維持できる。それは消費文明の終焉とか資本主義の限界とかいう文明論とは関係なく、エネルギーの費用対効果を考えてどういうポートフォリオを組むかという経済問題にすぎない。