きのうのIT復興円卓会議では、今回の震災報道でメディアの果たした役割が話題になった。「マスコミ対ソーシャルメディア」とか「記者クラブ対フリージャーナリスト」などという図式は無意味で、誰が信用できるかという個人ブランドの時代になった、というのが私の意見だったが、佐々木俊尚氏などもおおむね同じ意見だった。

政府の原発事故についての発表が支離滅裂だったことに批判が集中したが、これも保安院の素人集団が事故処理を仕切っていたからだ。アメリカのNRC(原子力規制委員会)は、Ph.Dをもつ原子力工学などの専門家で構成されているが、日本の独立行政委員会と称するものは、たいてい官僚の出向だ。今度できる「原子力安全庁」も、新たな出向先をつくるのでは機能しない。幹部には、民間の専門家を雇用すべきだ。

もっとひどいのはマスコミで、警察や官庁などの記者クラブを2年ぐらいのローテーションで転々とするので、原子力のような専門的な問題になると、言葉の意味も理解できない。「メルトダウン」をめぐる混乱した報道は、こうした素人報道のもたらしたものだった。

「記者クラブの談合をソーシャルメディアが是正した」というのも逆で、マスコミがパニックをあおらないように慎重に報道したのに対して、自称ジャーナリストは夕刊紙以下のデマを流し、ひたすら不安をあおった。特に放射線医学の専門家を検察に告発するという暴挙を「自由報道協会」が支援したことは、ジャーナリストとして自殺行為である。

今のようにマスコミとネットの境界が消滅すると、媒体や肩書きには意味がなく、情報の質は「広瀬隆氏と山下俊一氏のどちらが信用できるか」といった個人の専門性の問題に帰着する。これは佐々木氏のいう「キュレーション」に近いかも知れない。検索エンジンによる機械的な情報選択ではなく「あの人の選んだ情報だから見てみよう」というフィルタリングが価値をもつのである。

先日「まぐまぐ」の人が「メルマガの読者数をみると、上位はホリエモンのような個人メルマガで、『週刊**メルマガ』という類の有料メルマガはほとんど読まれない」といっていた。「アゴラ」でも筆者によってアクセスは大きく違い、PVの半分は上位2人で占めている。かつてのように一定の資本がないとメディアが発行できなかった時代には企業名がブランドだったが、個人メディアが可能になった時代には、固有名詞がブランドになるのだ。

これはアップルや任天堂やユニクロのようなオーナー企業が高い付加価値を生み出すようになった傾向とも共通している。情報産業では市場や技術が急速に変化し、専門性が高いので、コンセンサスで動く日本型組織では、そのスピードに追いつけない。突出した個性をもつ創業者が独断で引っ張ってゆく企業が、高い優位性をもつのだ。

しかし日本の大企業は、依然として「終身雇用」の建て前を変えず、いろいろな部署を転々とするローテーションによって、世界で通用しない汎用サラリーマンを育成している。このような組織では専門家は育たないし、個人ブランドで競争することもできない。古い企業が没落し、世代交代することによってしか本質的な変化は起こらないのだろう。