先週の記事に専門家からコメントがあったので、少し補足しておく。「その処理技術も確立しており」という断定的な表現は誤解をまねくかもしれないが、物理的には放射線を遮蔽する技術は確立している。しかし政治的には、最終処理の方法は確立していない。それは人々が、たとえ放射線のリスクがゼロでも、核廃棄物の近所に住むことをきらうからだ。原子力の問題のほとんどは技術ではなく、政治と感情なのだ。

こういう場合、人々の安心を優先して、核廃棄物処理場の建設をやめるべきなのだろうか。それとも安全なら建設すべきなのだろうか。経済学者は前者を「バイアス」と呼び、客観的なリスク評価にもとづいてプロジェクトを実行すべきだというだろうが、人々の幸福を決めるのは所得ではなく心理だ。所得が増えても心理的に不安になるなら、安心を優先することも一つの考え方だろう。

原発の再稼働についても同じだ。先日、あるテレビ番組で同席した原発立地県の元知事が「私なら絶対に再稼働に同意しない。個人的には福島第一のような事故が他で起こるとは思わないが、政府の方針がこれほど二転三転すると、県民は安心できないし、行政は責任がもてない」と言った。

これはその通りだと思うが、ではどうすれば県民は安心するのだろうか。原発を廃炉にすればいいのかもしれないが、それによって生じる巨額の損害は、結局は電気代の値上げとして県民の負担になる。それによって「安心だが貧しい生活」をすることは、原発を動かして「不安だが豊かな生活」をするのと、どっちがいいのだろうか?

同じような問題は、市場経済全体にある。労働市場を競争的にして人材を流動化することが経済的に望ましいことは自明だが、労働組合はそれによって社会が「不安定」になると反対する。実は、それは正社員だけの安心で、フリーターの生活はもともと不安定なのだが、とりあえず現状を維持すれば労働組合の安心は確保できる。

これは偽薬(プラシーボ)のようなもので、心理的にきくなら処方することも一案だ。脱原発も雇用規制もバラマキ福祉も、目に見える「安心」の効果は明らかだが、その機会費用はGDPの低下という目に見えない(因果関係も追えない)形で出てくるので、政治的には賢明だ。そのつけが財政破綻としてやって来るかもしれないが、来ないかも知れない。そういうtail riskに賭ける福島みずほ症候群は、意外に合理的なのだ。