人間本性論〈第1巻〉知性について昔、廣松渉の授業で、彼が「私のことをヘーゲリアンだという人が多いが、私は近代哲学でいちばん重要なのはヒュームだと思う」と言ったことがある。よく西洋の近代哲学はデカルトの方法的懐疑から出発したといわれるが、これを徹底したバークリは、世界のすべての事物は私の意識の生み出した仮象だという主観的観念論を主張した。ヒュームはさらに進んで、デカルトもバークリも疑わなかった「私」の存在を疑った。

彼は「人間とは、絶えず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束」だとした上で、そういう本源的にはバラバラの知覚の束が「私」という同一性をもつのはなぜかと問い、その答を記憶の保持に見出した。これはほとんど現代の脳科学と同じ結論である。この観点から、彼は法則や因果関係などの近代科学の概念を疑う。
すべての事実の逆もまた可能である。それは論理的な矛盾をきたさないし、他のすべての物事と同じように精神によって同様にたやすくはっきりと認識できるからだ。太陽があす昇らないという命題は、それが昇るという肯定命題と同じく意味があり、矛盾もない。
歴史上すべての人間が死んでも、あなただけは死なないかもしれない。それは誰にも証明できない。経験的事実から理論を帰納するアルゴリズムは存在しないのだ。科学的な因果関係も、主観的な経験則にすぎない。これがカントをして「独断のまどろみ」から醒まし、コペルニクス的転回のきっかけとなった。

もう一つ有名なのは、理性は感情の奴隷であるという言葉である。これはしばしば理性を否定する「非合理主義」のように誤解されているが、ヒュームはこう説明している。
ある対象に向かって愛着または嫌悪が生じるのは、快あるいは苦の予期からである。もしそういう原因や結果がどうでもよいものであれば、それがわれわれの関心を引くことはありえない。[・・・]理性はこの(原因と結果の)結合を見出すだけだから、対象がわれわれの心を動かしうるのは理性によってではありえないことは明らかである。
つまりカーネマンのモデルでいえば、システム1の感情によってアジェンダが設定されて初めてシステム2の推論が機能するのだから、前者は後者の必要条件だといっているのだ。ヒュームはデカルト的な理性を否定していないが「理性だけでは意志が生じえない」ので、合理主義だけで社会を理解することはできないのである。

では、その感情はどこから生まれてくるのだろうか。それについては「宗教」や「習慣」などがあげられているが、これはいささか同語反復的だ。宗教は感情が共有されないと生まれないので、感情がいかにして共有されるのかという問題は未知のままだ。そしてこの問題は、現代の経済学にとってもフロンティアである。行動経済学は理論なき経験主義だと批判されて久しいが、ヒュームにその理論のヒントがあるような気がする。

しかしヒュームの主著『人間本性論』は訳本に恵まれない。中公は抄訳だし、岩波文庫の全訳は50年以上前の悪訳。最近出たこの新訳も、上巻610ページのうち250ページが訳者解説で16000円という、とんでもない代物だ。Kindleなら無料で読めるので、それを読むことをおすすめしたい。