民主党政権のグダグダぶりをみていると、丸山眞男の格闘した問題は日本人の永遠の問題だという感を強くする。彼は一般には西洋的モダニストとして知られているが、講義録などを読むと、むしろ「日本的なるもの」についての考察が大半を占めている。晩年の有名な論文「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆』所収)は、彼の日本人論の集大成である。
経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁茂に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。
これは思いつきで消費税やら雇用やら「脱原発」やら、つぎつぎとなりゆきにまかせて看板を掛け替える、どこかの国の首相の行動を描写しているようにみえる。もともと日本の政治家には原則とかイデオロギーといったものは(よく悪くも)乏しく、自民党は財界の既得権を守って利益の分配にあずかり、野党はそれに寄生して労組の分け前を要求する「分配の政治」だった。

ところが、かつての野党が政権党になってみると、身内に分配すべきパイはすっかりやせ細り、むしろ増税とか歳出削減とか、誰にも喜ばれない役割ばかり回ってくる。そんな中で、昔の「何でも反対」の行動様式に適したテーマが脱原発だった。最近の首相が、追い込まれているのに生き生きしているのは、そのせいだろう。もともと彼には積極的な政治理念はなく、言動の一貫性という「道理の感覚」もない。あるのは、つぎつぎになりゆく世論におもねる歴史的相対主義である。

他方で官僚機構は過剰に一貫性を重視し、前例を踏襲する。きょうも周波数オークションに関するウラ懇談会で話したことだが、オークションをやるべきかどうかなんて今さら議論する価値もない。むしろこんな当たり前の制度を導入するためにまた「懇談会」を設け、前例を変える手続きに膨大な労力を費やす官僚の手続き的一貫性への異常な執着についての社会病理学的な診断が必要だ。

このように機会主義の政治家と前例主義の官僚機構が組み合わさると、いったん変な方向に転がり始めたら軌道修正がきかなくなる。その代表が東條英機だった。御前会議で決まった開戦を避けようとする近衛首相を、東條陸相は「それは方針を決める時にいうことだ。決まった以上は断固としてやり抜くしかない」と叱りつけ、近衛は辞職した。

菅首相の極端な行き当たりばったりの行動は、こうした日本政治の「古層」が津波に洗い流されて露出したのかもしれない。きのうアゴラBOOKセミナーでも田原総一朗さんと意見が一致したことだが、こうした日本政治の特異性は、もともと日本が世界でもまれにみる平和な国で、国家権力を必要としなかったことに原因があるのだろう。

丸山によれば『古事記』以来の史書に共通している日本人の歴史意識は、柳田国男が「常民」の民俗として記録に残した文字を知らない人々の意識とも共通している。それは時間が円環を描いて流れ、進歩や変革のない世界である。人類の歴史上は、こうした時間意識が農耕社会では多数派だった。

いま日本の陥っている危機の原因は、政治学や経済学などのレベルではなく、このように日本人の暗黙知に深く根ざした「古層」とグローバル化する世界との不整合にあるような気がする。60年安保では知識人の先頭に立ってそれを変えようと試みた丸山は、晩年には政治活動から身を引き、一種の諦観の境地に達してしまった。
「神は死んだ」とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の持続」は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているのかもしれない。このパラドックスを世界史における「理性の狡智」のもう一つの現われとみるべきなのか、それとも、それは急速に終幕に向かっているコメディなのか。