Rational Choice東日本大震災のような巨大地震が近いうちに再発する確率はほぼゼロであり、それが原発のある地域で起こって大津波で(すでに耐震工事の終わった)予備電源装置を破壊する確率は、おそらく100万年に1度以下だろう。それでも人々は検出限界以下の放射線を恐れ、知事は原発の運転再開に同意しない。このような行動を経済学では非合理的な意思決定と呼ぶ。

しかし合理的とは何だろうか? 経済学では効用を最大化する行動だが、現実の人々の行動のほとんどが非合理的だとすれば、それと無関係な数学的公準を合理的と呼ぶのはおかしいのではないだろうか。むしろ新古典派経済学の命題のほとんどは、理想的な条件のもとではこういう行動で効用が最大化されるという規範的な理論と考えたほうがいいというのが著者の意見である。

では、それとは別の記述的な理論とは何か。困ったことに、規範的な理論については世界的に標準化された定説があるのに、記述的な理論にはさまざまな仮説や実験があって混乱している。そのうち有力なのは、著者が他の入門書でくわしく解説しているプロスペクト理論だが、これも新古典派に代わる包括的な理論とはいいがたい。

この二つの理論を架橋する可能性として、著者が感情の役割をあげているのは興味深い。彼はダマシオの二元論を引用して、これは経済学の観点からも正当化できるという。一つの数学の問題を解くには論理だけでいいが、多くの問題があるとき、どれを解くかを論理で決めることはできない。与えられた効用関数を最大化するのは理性だが、効用関数を決めるのは感情である。

つまり合理性というのは、アジェンダが与えられたとき計算するアルゴリズムを示しているだけで、そのアジェンダを設定するメタレベルの感情と対立するものではない。むしろダマシオもいうように、感情がなければアジェンダを設定できないから、感情は理性の機能する条件なのだ。

したがって何が「正しい」感情であるかを合理的に決めることはできない。メタレベルの意見の違いをどう埋めるかについては、民主主義という欠陥の多い手続きしか今のところない。本書は社会的選択理論についても解説して、複数の人々による合理的選択も不可能であることを示す。その原因はアロウの定理のような数学的矛盾ではなく、センのいうように多様な価値観が通約不可能だからである。

ゲーム理論は、こういう問題を戦略的な行動の結果として解こうとするものだが、ナッシュ均衡もアルゴリズムの一つにすぎない。だからアジェンダ設定をナッシュ均衡として解こうとする「制度分析」には限界があり、政治や感情を無視して提言する経済学者の政策は世間に相手にされない。必要なのは、たぶん感情のレベルを(脳科学や心理学の助けを借りて)分析する新しい科学だろう。

本書は学部レベルの意思決定理論の入門書で、期待効用理論からプロスペクト理論まで薄く広く網羅している。記述はやさしいが、巨匠らしい哲学的な考察が味わい深い。