デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)反原発派が私に対して投げつけてくる言葉の特徴は、ほとんどが匿名で「クズ」とか「死ね」などの罵倒が多いことだ。こういう場合、論理で説得するのは無駄である。彼らを動かしているのは、論理ではなく感情、特に放射能という見えない脅威に対する恐怖だからだ。

こうした感情を行動経済学では「バイアス」と呼ぶが、それは不合理なものだろうか。進化における生存競争は非常にきびしいので、生存に適しない脳の機能が残っていることは考えられない。それは生存に何かの役割を果たしているはずだ。それを著者が理解するヒントになったのが、事故で脳を鉄骨が貫通した建設労働者の症例である。

彼は奇蹟的に一命を取り留め、意識もあったが、人格が一変した。仕事のやり方は覚えているのだが、最後までやり遂げられない。気まぐれなのに頑固で、あたりかまわず喧嘩を売るため、どこの職場にもいられなくなった。歩行や食事などの動作は普通にできるのでホームレスのような生活を続け、38歳で発作を起こして死亡した。

彼の脳を分析した結果わかったのは、前頭葉が大きく損傷して感情のバランスを取る機能が失われたことだった。つまり感情はいろいろな感覚や行動を統合し、人間関係を調節する役割をもっているのだ。感情を理性の派生物と考えるデカルト的な合理主義とは逆に、感情による人格の統一が合理的な判断に先立つ、というのが著者の理論である。

この場合の感情(feeling)は個々の刺激によって生まれる情動(emotion)とは違い、いろいろな情動を統合して「原発=恐い」といったイメージを形成する。進化的に考えても、一つ一つの刺激を個別に判断するのではなく、それを類型化してフレーミングを行なうことによって即時に対応できるようになる。こうした感情は身体と結びついて反射的な行動を呼び起こす、というのが著者の提案したソマティック・マーカー仮説である。

このように感情が合理的な判断の基礎になるという考え方は、カントのカテゴリーを感情で置き換えたものとも解釈できるが、著者は近著ではスピノザがその元祖だとしている。身体が超越論的主観性の機能を果たしているというのはメルロ=ポンティが指摘したことで、最近ではレイコフが強調している。

こうした身体的な反応がもっとも強いのは恐怖である。敵から逃げる反射的な行動が、生存競争では重要だからだ。したがって「放射能への恐怖」におびえている人々には、デカルト的な説得は効果がない。いくら客観的データを示しても、身体的な恐怖感で形成されたフレームでブロックされてしまうのだ。

だから一つの物語を否定するにはそれより魅力的な物語を提示するしかなく、恐怖を打ち消すにはもっと大きな恐怖を与えるしかない。「電力は十分足りている。夏の数日間だけ足りない場合はエアコンOFFで対応すれば良い」などと脳天気なことをいっている大阪府知事は、関西が大停電になったらわかるだろうか。