純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)原発をめぐる議論が不毛な罵り合いになるのは、推進派と反対派が別の「宗教」で、最初から結論が決まっているからだ。これは極端な例だが、人間が論理的に話し合えばわかるなどというのは大きな間違いだ。むしろ最初からもっている先入観や思考様式の違いが圧倒的に重要で、深刻な問題になればなるほど、その違いを埋めることは困難になる。

カントは、こうした構造は認識に普遍的なものだと考え、経験に先立つ思考様式をカテゴリーと呼んだ。彼はこれをアプリオリなものと考えたのだが、最近の脳科学では空間とか時間とか「私」という感覚などは、幼児期にかなり時間をかけて獲得されることがわかっている。だから他人を理解するためにまず必要なのは、このカテゴリーを共有することなのだ。

レヴィ=ストロースは「超越論的主観性なきカント主義」と自認したが、トマス・クーンは自分の思想を「歴史的カント主義」と呼んだ。科学理論にとって重要なのは内容より形式(パラダイム)だという彼の主張は、最初は科学の客観性を否定するものとして反発を受けたが、今日では常識だ。最近は経済学でも、この点はフレーミングとして知られるようになった。本源的な無限大の情報を処理することはできないので、思考のフレームを設定して情報を圧縮することは「アノマリー」ではなく、むしろ思考の条件なのだ。

政治的な論争では、同じフレームの中で細かいデータの正否が争われることは少なく、むしろ異なるフレーム同士の通約不可能性がデッドロックになることが多い。日本で経済学者が相手にされない原因は、彼らが学界の中で共有しているフレームが一般社会で通用しないからだ。個人が「完全情報」をもとに合理的に行動するという新古典派の仮定は、カントの否定した形而上学である。

もちろん単に不完全だとか不合理だといってもしょうがないので、今後はAkerlof-Krantonのようにフレームがどう形成されるかを分析するメタレベルの研究が必要だろう。イノベーションも本質的にフレーム転換であり、フレームを濃密に共有する日本型組織の特徴が破壊的イノベーションを阻害している。それを政府が業者の「懇談会」で調整することは、かえってイノベーションを殺す結果になる。

カントがこうした問題の答を用意しているわけではないが、形式(カテゴリー)が内容に先立つというコペルニクス的転回を実現したのは彼である。本書は従来、難解で読めたものではなかったカントの理論をていねいに解説した画期的な訳本だ。