来月のBookセミナーでは、アゴラブックスから復刊する『原子力戦争』について田原総一朗さんに話を聞く。私は学生時代に映画で見たことがあるが、日本の政治の暗黒面を原発を素材にして描いたものだ。

原発は高度成長の象徴だった。これを日本に導入したのは正力松太郎であり、それを大きな利権にしたのは田中角栄や中曽根康弘だった。都市から地方へ所得再分配を行なう自民党の政治家にとっては、原発を初めとする発電所は大きな利権の源泉となった。電源立地交付金という形で地元に落ちる資金のかなりの部分が、政治家への賄賂だった。『原子力戦争』は、その実態を生々しく描いている。

これに反対する勢力も政治的だった。60年代後半の学生運動が挫折し、70年代に公害反対運動にテーマを移し、その象徴として原発が標的になったのが70年代後半だった。このため、原発はゴミ処理場のような普通の迷惑施設とは違い、金で解決できないイデオロギー闘争になった。各地で起こった原発訴訟を支援したのは、学生運動でドロップアウトした万年助手や学生だった。それは彼らの人生を賭けた闘いだったのだ。

世界的にみると、チェルノブイリ事故のあとに建設された新しい発電所ではほとんど事故が起こってないが、旧共産圏の古い核施設でたびたび事故が起きている。普通のプラントと同じく、原発も新しい技術で建て直すことが一番の安全対策なのだが、反対派が新設に反対するので、政治的に容易な既存の設備の延命でしのぎ、いったん地元の了解を得た場所に立地が集中する。それが福島第一では悲劇をもたらした。

武田徹氏も指摘するように、絶対安全を求めて条件闘争に応じない反対派と、それを金の力で押さえ込もうとする電力会社の「チキンゲーム」から、双方とも降りられなくなった(「囚人のジレンマ」というのは間違い)。行政は地元との交渉を電力会社に丸投げし、何か起きたら「第一義的には事業者の責任で」という言葉で逃げる。原賠法の1200億円という限度額も「それ以上の大規模な事故は起こりえない」という建て前論によるものだった。

原発の最大のコストは、こうした政治的な要因である。火力と同じぐらいの安全基準でよければ、原発は圧倒的に安くなるだろう。純粋にテクノロジーとして考えれば、ビル・ゲイツもいうように、原子力はイノベーションの余地が大きく、経済性も安全性も高くなる可能性がある。しかし人々は、政治的な敵対心なしにそれを語れない。

だからエネルギー戦略を客観的に考えるには、高度成長期以来の都市と地方の関係を見直し、原発を政治と切り離す必要がある。来月のセミナーでは、田原さんと一緒にそういう問題を考えたい。