内田樹氏の記事について論評したら、大きな反響があったので、少し補足しておこう。この記事が前半でいっている「政府や東電の対応が帝国陸軍と似ている」というのはその通りで、私も同じような感想を書いた。しかし内田氏はそこから「すべての原発の即時停止と廃炉」を求めるのだ。その理由を彼はこう書く:
[原発は]いったん事故が起きた場合には、被曝での死傷者が大量発生し、国土の一部が半永久的に居住不能になり、電力会社は倒産し、政府が巨額の賠償を税金をもってまかなう他なくなる。原発事故によって失われるものは、貨幣に換算しても(人の命は貨幣に換算できないが)、原発の好調な運転が数十年、あるいは数百年続いた場合にもたらされる利益を超える。
これは事実認識として誤りである。今回の原発事故で、人命は1人も失われていない(今後も死者はゼロに近いだろう)。損害は数兆円と見込まれるが、これは東電の1年分の売り上げにも満たない。もちろん損害賠償を行なったら東電の経営が破綻するおそれは強いが、その損害は「原発の好調な運転がもたらされる利益」の数年分程度だろう。

つまりメディアの伝えるおどろおどろしい話とは違って、福島第一原発の事故の損害は、想定された最悪の事態よりはるかに小さいのだ。チェルノブイリ事故による死者は、癌による長期の被害を考えると数千人から1万人といわれるが、これはソ連政府が事故を隠して住民が避難せず、放射能汚染されたミルクを飲んだことによる被害がほとんどだった。スリーマイル事故の死者はゼロである。

しかし今後、日本で原発の立地はほとんど不可能になるだろう。それは内田氏のような「局所最適化」で考える国民が圧倒的に多いからだ。「すべての原発の即時停止と廃炉」を実行したら、電力の27%が失われる。いま首都圏は、電力が1割ほど不足しただけで大混乱だが、それをはるかに上回る混乱が全国に発生するだろう。

内田氏は原発を止める代わりに「できるだけエネルギーを使わないライフスタイルへの国民的シフト」や「首都機能の全国への分散」などを主張するが、それを誰がどうやって実行するのか。民主主義国家が、人々に今より貧しい生活を強制することはできない。それが人々の善意だけでできると考えているとすれば、彼は兵站を軽視した帝国陸軍より甘い。

太陽光などの再生可能エネルギーを開発することは重要だが、それは原発の代わりにはならない。石油火力は、原油価格が上昇する中では高価なエネルギーになる。残された選択は石炭火力と天然ガスだが、化石燃料に依存するリスクは大きい。今でも欧米の2倍以上の電気料金がこれ以上高くなったら、日本で製造業は成り立たなくなるだろう。

よくも悪くも、日本はこれから原発を捨てざるをえないだろう。そこに待っているのは内田氏が夢見ている「エコな生活」ではなく、今の首都圏のようなエネルギー不足が恒常化し、産業競争力が失われ、マイナス成長の続く世界である。国民がそれを望むのであればやむをえないが、彼らはいったん得た豊かな生活を捨てないだろう。潤沢で安いエネルギーとそのリスクは、トレードオフになっているのだ。

むしろ今回の事故ではっきりしたのは、内田氏のような経済性を無視したエコ幻想が破産したということである。原子力への依存度を下げるためには、民主党政権の「温室効果ガス25%削減」という国際公約を撤回し、京都議定書を破棄して、CO2排出量は多いが電力単価が低く埋蔵量の多い石炭火力を増やすことが現実的だろう。

それでもエネルギー価格の上昇は避けられない。製造業では今後、多くの雇用が失われるだろう。労働力をサービス業に移転するためには、20年以上、積み残してきた労働市場の流動化や資本市場による産業再編などの構造改革をこれ以上、先送りすることはできない。「エネルギーを使わないライフスタイル」への転換は統制経済ではなく、市場経済によって行なうしかない。