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昨夜のNHKの「無縁社会」の番組が、あちこちで話題になっている。私は「働く世代の孤立を防げ」というタイトルだけで見る気がしなかったが、内容は想像以上に恥ずかしいものだったようだ。それは上のイラストからも感じられるが、きわめつけがスタッフの作ったとみられる自作自演のつぶやきだ。

朝日新聞の「孤族」キャンペーンとも共通するのは、日本は本来「有縁社会」で、その縁が失われるのは嘆かわしいという湿っぽいノスタルジアだ。しかし島田裕巳氏も指摘するように、人々は経済成長によって縁を失ったのではなく、高度成長期に自由で豊かな生活にあこがれて都市に集まり、みずから「無縁化」したのだ。小池和男氏などの調査でも明らかなように、日本人が「社縁」の好きな会社人間だというのも幻想である。

ところがNHKは、この問題を逆に見て「20~30代の4割が非正規雇用で働いている今、賃金があがることも、明日の保証もない。無縁社会を解消するために、私たちは何ができるのでしょうか?」と問いかける。ここでは「非正規雇用」は望ましくない働き方で、彼らを「正社員」にしてあげることが政府の役割だというストーリーが最初から前提されている。

これが事実なら、話は簡単だ。労働基準法を改正してすべての労働者を終身雇用(無期雇用契約)にし、解雇を全面禁止すればいい。それが答にならないことは、日本郵便のケースを見れば明らかだろう。亀井静香氏の命令で6500人の非正社員を正社員に「登用」したおかげで、今度は2000人を雇い止めする結果になった。これは「雇用規制を強化すると雇用は減る」という経済理論の人体実験である。

根本的な問題は、経済がグローバル化して競争が激化し、その変化を会社という共同体(長期的関係)で吸収できなくなったことだ。こういう状況で無理に社縁を守ろうとすると、会社が市場で淘汰されてしまう。競争に対応するには古い組織を個人を単位とする市民社会に分解して柔軟に動けるようにするしかなく、そういう変化が全世界で起こっている。

こうした後期近代の問題は、昔NHKがキャンペーンを張った「ワーキングプア」とか「格差社会」に比べれば本質的である。所得格差はバラマキ福祉で(短期的には)解決できるが、中間集団の求心力が失われて社会が<私>に分解する傾向は止めることができないからだ。

この種の問題は、欧米では繰り返し論じられてきた。社会が個人に分解することが望ましいと主張して政府の役割を否定したのがリバタリアンで、それに対して普遍的な正義の観点から政府による所得再分配が必要だと考えたのがリベラルだ。両者に共通する個人主義を批判して、各コミュニティに固有の価値を守ろうとしたのがコミュニタリアンである。

ところが日本では、サンデルの講義を放送したNHKでさえ問題の所在を理解しないで、「無縁社会を解消」して古きよき有縁社会をいかに取り戻すかというノスタルジアを繰り返す。それが人々の感情に訴え、政治的にアピールしやすいことは事実だろう。

施政方針演説でも、菅首相は「『無縁社会』や『孤族』と言われるように、社会から孤立する人が増えています」と述べ、「誰一人として排除されない社会」の実現を誓った。しかしこんな古くさい温情主義が何の解決にもならないことは、この1年半の民主党政権の実績で明らかだ。

ハイエクも論じたように、どんなコミュニティも自生的秩序として維持されるかぎりにおいて続くのであり、コミュニティを政府が作り出すことはできない。個人主義にもとづく市民社会は快適ではないが、日本が自由経済システムをとった以上、後戻りは不可能である。政府の役割は縁を作り出すことではなく、個人の自立を支援する最低保障だ。未練がましい無縁社会キャンペーンは有害無益である。