
ただ本書も示すように、よくも悪くもこの座談会の問題意識は、非西欧圏の「オリエンタリズム」に対する両義的な態度を典型的に示している。東北大学で教えたカール・レーヴィットは「日本の学生は2階建ての家に住んでいる。1階では日本人らしく考え、2階ではプラトンからハイデガーに至るまでの西洋の学識を学んでいる。彼らは1階と2階をどうやって自在に行き来できるのだろうか」と言ったそうだが、これは現代の日本人にも当てはまる。
コミュニタリアン的にいえば、日本人は日本の価値基準で行動すればいいのだから、欧米の個人主義に迎合する必要はないということになるが、問題はその「日本的価値」がもう自明ではなくなっていることだ。サンデルも指摘するように、思想の価値はその経済的メリットで評価すべきではないが、どういう思想が生き残るかはその経済的帰結で決まる。日本型コーポラティズムが一時期、「人本主義」などと賞賛されたのも、日本企業の業績がよかったからにすぎない。
日本経済の行き詰まりが示しているのは、官民や企業の長期的関係に依存する「1階」部分の調整メカニズムがもう崩れているということだ。日本人が組織に依存して生きているという神話も、昨今の選挙で「無党派層」が圧倒的な影響力をもつようになったのを見ると疑わしい。好むと好まざるとにかかわらず、日本社会は流動化しており、この流れは不可逆である。それを「無縁社会」とか「孤族」などというノスタルジアで語るのは、NHKや朝日新聞の老人だけだろう。
むしろ本書も指摘するように、デジタル技術は西欧近代をも超えて「個人」をさらに解体しているのかもしれない。ケータイで膨大な情報や体験を共有する若者は、仮想的に一つの身体で行動している。ケータイは彼らにとって、義手や義足のように身体の一部になっている。近代的自我を定義する身体の自己同一性は、もはや自明ではない。脳科学も明らかにしたように、もともと<私>は1000億のニューロンを同期させるための幻想にすぎない。
近代的自我の起源をこのような身体性にもとづく所有権に求めたのはヘーゲルだが、市民的な身体性が失われると所有権の自明性も失われる。それが今まさにインターネットで起こっている変化である。東洋が今後の100年で西洋をleapfrogできる可能性があるとすれば、「知的財産権」を否定して個人という幻想をウェブに溶解させることかもしれない。本書の問題意識は古色蒼然としているが、近代を相対化するヒントにはなろう。
日本経済の行き詰まりが示しているのは、官民や企業の長期的関係に依存する「1階」部分の調整メカニズムがもう崩れているということだ。日本人が組織に依存して生きているという神話も、昨今の選挙で「無党派層」が圧倒的な影響力をもつようになったのを見ると疑わしい。好むと好まざるとにかかわらず、日本社会は流動化しており、この流れは不可逆である。それを「無縁社会」とか「孤族」などというノスタルジアで語るのは、NHKや朝日新聞の老人だけだろう。
むしろ本書も指摘するように、デジタル技術は西欧近代をも超えて「個人」をさらに解体しているのかもしれない。ケータイで膨大な情報や体験を共有する若者は、仮想的に一つの身体で行動している。ケータイは彼らにとって、義手や義足のように身体の一部になっている。近代的自我を定義する身体の自己同一性は、もはや自明ではない。脳科学も明らかにしたように、もともと<私>は1000億のニューロンを同期させるための幻想にすぎない。
近代的自我の起源をこのような身体性にもとづく所有権に求めたのはヘーゲルだが、市民的な身体性が失われると所有権の自明性も失われる。それが今まさにインターネットで起こっている変化である。東洋が今後の100年で西洋をleapfrogできる可能性があるとすれば、「知的財産権」を否定して個人という幻想をウェブに溶解させることかもしれない。本書の問題意識は古色蒼然としているが、近代を相対化するヒントにはなろう。
アメリカではパウエルやアーミテージが外交幹部で登用されるように、高級幹部にある種の汎用型エリートによる横断的なダイナミズムがあります。
(日本の上級幹部養成は縦割り内でのゼネラリストであって、縦割り同士の連携は十分に機能しません。)
解決を縦割りから米型のエリート式への組織移行に求めるのではなく、縦割り組織の横断できる人材を少数でも人工的に育成し
彼らに権限をもたせる方向に労力を割くべきではないかと考えます。
また小学校と給食のおかげで、国民の平等感が非常に強い。この点が「個人という幻想を溶解」をしやすくしてくれていると思います。