先週のUstream中継でも議論したことだが、今のマスコミが広い意味でのソーシャルメディアに支配的な地位を譲ることは、遅かれ早かれ避けられない。しかし問題は、それによって今より大きなメディア産業ができるのかということだ。私はたぶんできないと思う。

その理由は、従来のメディアはそのインフラ独占によって高い利潤を上げてきたが、ウェブは非常に競争的なので、高い価格が設定できないからだ。たとえば、かつてNTTの電話の売り上げは年間6兆円だったが、今は2000社以上のISPを合計しても8000億円ぐらいだ。しかしそこを流通する情報の量は何万倍にもなり、ウェブを利用する情報サービス全体の付加価値は数十兆円にのぼる。

このような知識の外部性は成長理論で全要素生産性として知られているが、逆説的なのは資本主義のエンジンが市場を通さない知識のスピルオーバーだということである。もちろん特許や著作権で守られている知識もあるが、多くの実証研究では、知識の価値はそれを創造した人に1/4ぐらいしか還元されない。しかしMokyrなども指摘するように、産業革命を生んだのは特許制度ではなく起業家のコラボレーションなのだ。

こうした知識の外部性を最初に指摘したのはマルクスだった、といえば牽強付会に聞こえるかもしれないが、彼は労働についての断章と呼ばれる『資本論』の草稿(経済学批判要綱)で次のように書いている:
自然は機械をつくらない。それは人間の頭脳や手の生み出した器官であり、知識の力が対象化されたものだ。固定資本の発展は、社会的知識がどれほど生産の直接的な手段になり、社会的な生活の条件がどれほど一般的知性によってコントロールされて生産に適応しているかを示している。
これはネグリ=ハートが『帝国』で、マルクスが「非物質的労働」を視野に収めていたことを示す証拠として引用した文章だ。これに続く部分で、マルクスは社会的知性が科学技術による生産の条件だとものべている。そしておもしろいことに、こうした社会的知性は生産だけではなく消費によっても生まれると説いている。

たとえばあなたが会社から帰ってきてブログを書くとき、それはあなたにとっては遊びだが、読者にとっては意味のあるサービスになりうる。ここでは労働=受苦と消費=快楽という二分法はなくなり、労働が生活の手段ではなく目的になるという『ドイツ・イデオロギー』の夢想が、ある意味で実現するわけだ。

だから狭義のソーシャルメディアが「産業」として従来のメディアより小さくなるとしても、嘆くにはあたらない。それはサービスを消費する側だけではなく、それを生産する側にも喜びを与え、一般的知性をさらに発展させ、成長のエンジンとなるからだ。そしてマルクスも指摘したように、科学の大部分はこのような娯楽として生まれ、結果として産業を発達させたのである。