資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)きのうのアゴラ連続セミナーでは『資本論』を読んだ。この準備のために、10年ぶりぐらいに訳本を読んだが、あらためてすごい本だと思った。といっても、昨今のマルクス本のように「プレカリアートの味方」だとか「人間疎外を告発した」とかいう話ではない。マルクスは、そういう凡庸な平等主義を否定していた。

一般には、マルクスの価値論はリカードの焼き直しだと思われているが、廣松渉も指摘するように、彼は価値実体論を疑い、あと一歩で労働価値説を否定するところまで行っている。たとえば等価形態を説明する部分には、有名な次のような叙述がある:
この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが彼らは反対に、彼が王だから自分たちは臣下だと思うのである。


これは「価値は距離のようなもので、一物の価値というのはありえない」とリカードを批判したベイリーの相対的価値論の剽窃なのだが、マルクスはベイリーを「俗流経済学者」として罵倒し、彼は労働価値説を理解していなかったのだという。しかし価値が王の地位のように主観的なものであれば、それが労働時間で決まるはずがない。デリダが指摘したように、価値が「幽霊のような対象性」だと述べたマルクスと、労働価値説のマルクスは矛盾しているのだ。

マルクスは商品の「物神性」を論じ、その延長で貨幣の王に似た性格を論じる(これは岩井克人氏の『貨幣論』でよく知られているが、彼の議論はマルクスと宇野弘蔵の焼き直し)。貨幣はそれが貨幣と認められるがゆえに貨幣であるという同語反復的な存在だが、ふだんは人々は貨幣が王のように内在的な権威をもつと信じている。

ゲーム理論でいうと、これは共有知識の問題である。Aumannなどの厳密な基礎論によれば、ナッシュ均衡の存在する必要条件は、全員が他人の利得をすべて知っていることを全員が知っている・・・という完璧な共有知識である。貨幣が存在する状態は協調ゲームの均衡だが、誰かが「王様は裸じゃないか」と疑い始めると均衡は崩壊し、取り付けやハイパーインフレが起こる。

これはマルクスの恐慌論を理解する上で重要だ。恐慌の原因は「私的所有と社会的生産の矛盾」によってつねに過剰生産や過少消費が起こることだが、これは「恐慌の可能性を示すに過ぎない」とマルクスはいう。景気循環は市場で調整できるからだ。

しかし人々の貨幣への信仰が過剰になると、それがもともとトートロジーであるがゆえに「資産価格が上がると信じる人々が増えれば資産価格が上がる」という危険な正のフィードバックが発生する。これによってバブルとその崩壊する金融恐慌は、必然的かつ定期的に起こるのである。

マルクスの予言は、不幸なことに21世紀になっても正しいことが証明された。これは今回の金融危機で注目されたミンスキーの理論とよく似ているが、マルクスはそれを単なる予想形成の問題ではなく、人々が人的非依存性のもとで分業する近代社会の本質的な矛盾だと考えていた。

伝統的社会では人的依存性によって互いをよく知っていた人々が都会に出てくると、彼らを結びつけるのは商品と貨幣によるく物的依存性だけになる。人々は互いに不可知のモナドになるが、かろうじて貨幣という神への信仰でつながっている。しかし神も王も貨幣もトートロジーなので、人々が取り付けに走ると、すべての銀行は破綻する。

スミスが明るくうたい上げた分業や市民社会の影の面を、マルクスはきわめて深いレベルで見ていた。貨幣は私的な分業によって分裂した近代社会の抱える根源的な不安を覆い隠す「イチジクの葉」であり、金融工学がいくら高度に発達してもそれを克服することはできない。だからバブルも金融危機も、また起こるだろう。それは資本主義の不治の病なのだ。