国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)アゴラ連続セミナーで、今週は『国富論』を読んだ。私は学生時代に買った中央公論社の「世界の名著」が全訳だと思っていたのだが、今回はじめてそれが抄訳だと知り、この山岡訳を最後まで読んだ。

これまでのスミス論は、堂目卓生氏のように、大部分が「見えざる手」の解釈論に費やされているが、これは本書に1ヶ所しか出てこないし、その意味もまったく説明されていない。それをどう解釈するかが「スミス問題」として知られているが、私の印象では、これは的はずれな問題設定だと思う。

最初から最後まで読めばわかるように、山岡訳で上下巻1000ページの半分以上は重商主義批判である。これは常識的にはもう終わった話で、現代の先進国で重商主義を標榜している国はなく、WTOに代表される自由貿易主義が原則である。その元祖がもちろんスミスで、本書はその通説的な立場からの過去の学説の批判とみられることが多い。しかしスミスが批判した重商主義とは、単なる貿易の問題ではない。それは有名な次の一節を読んだだけでもわかる:
生産物の価値がもっとも高くなるように労働を振り向けるのは、自分の利益を増やすことを意図しているからにすぎない。だがそれによって、その他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分がまったく意図していなかった目的を促進することになる。(本訳書(下)p.31)
これは経済学の原理を述べているのではなく、「第4編 経済政策の考え方」の中の「第2章 国内で生産できる商品の輸入規制」を批判する文章である。このあとには、次のような文章が続く:
何らかの製造業で国内の生産物に国内市場の独占権を与えると、ある意味で、各人の資本をどのように使うべきかを民間人に指示することになるので、ほとんどすべての場合に無益か有害な規制になるはずである。
見えざる手とは、「見える手」としての国家の介入に対する反語なのだ。スミスにとっての重商主義の問題点は、貿易障壁よりも国家の庇護を受けて新規参入を排除する大商人の既得権だった。本書には、そういう特権階級への攻撃が繰り返し出てくる。つまり『国富論』は、18世紀後半の新興資本家を代表して、大地主や大商人を守るアンシャン・レジームを批判したパンフレットなのだ。

それは19世紀後半に労働者を代表して資本家を批判した『資本論』とよく似ている。マルクスの図式は今となっては古くさいが、スミスの問題提起は、21世紀になっても日の丸技術をアジアに売り込もうとする某省のプロジェクトにも当てはまる。こうした新しい重商主義を進める官僚諸氏には、本書をぜひ全訳で読んでほしい。