美徳なき時代日本がいま直面している問題は、大きくいえば「啓蒙なき近代化」の挫折だろう。経済発展のためには、自由主義よりも国家資本主義のほうが効率的な場合もあるが、経済が成熟すると行き詰まる。社会を自律的に軌道修正するメカニズムを内蔵していないからだ。会社という「家族」で人々を統合する日本型コーポラティズムも、残念ながらもはや持続可能ではない。

だとすれば、あらためて啓蒙とは何かを考え直すことは避けられない。本書は道徳哲学の観点から啓蒙の失敗を批判し、その現代版としてロールズとノージックを批判して、その後の論争の出発点になったコミュニタリアニズムの原典である(第1版は1981年)。サンデルの議論は本書の焼き直しであり、彼の本に出てくるアリストテレスの話も本書がネタ元だ。

著者(マッキンタイア)によれば、啓蒙は倫理思想としては破産している。その最近の失敗例として彼が批判するのは、経済学である。ムーアやケインズなどのもっとも洗練された人々でさえ、道徳を個人の「選好」の集計としてしか語れない。経済システムが好き嫌いの感情に支えられているという情緒主義(emotivism)は、社会科学の基礎論としては話にならない幼稚なものだ。

それよりもカントのほうが、はるかに理論的に道徳を考えていた。彼は道徳律を定言命令という形で定式化したが、その基礎を論理的に説明できなかった。その弱点を徹底的に暴いて嘲笑したのがニーチェだが、彼も結局は超人という「強い個人」に回帰する。しかし何者にも頼らないですべてを決める意志をそなえた超人というのは、啓蒙的な個人主義のグロテスクな極北である。

このへんの議論は大陸のポストモダンとほぼ同じで、デリダやフーコーを投げ出した人も本書の平明な記述なら読めるだろう。ただ著者の独自性は、こうした20世紀的ニヒリズムも批判して、アリストテレスに答を求めることだ。ニーチェも指摘したように、ロゴスを出発点とするかぎり道徳は存在しえない。道徳の基礎となるのは、アリストテレスの倫理学におけるテロス(目的)である、というのが本書の結論だ。

この結論は論争を呼び、著者もその後はトマス・アクイナスに依拠するなど、転々と立場を変更している。近著では、道徳の基礎を進化心理学に求めている。これは最近の実験経済学とも一致しているが、アリストテレスが動物行動学に還元されるのは何だかなぁという感じだ。

ただ自律的な個人が社会の単位ではありえず、コミュニティで形成される価値が道徳の規準だという点で、著者の思想は一貫している。これは論理的には正しいが、具体的にどのような価値が正しいのかを言わなければ倫理基準にはなりえない。それがアリストテレスだというのは自民族中心主義だし、群淘汰は啓蒙に代わる倫理にはなりえない。たしかに啓蒙は最悪の倫理思想だが、その他のすべての倫理より今のところましなのである。